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「子ども扱い」じゃなくて「人間扱い」してよ

以前、夜に用事があり娘たちを誰かに預けないといけないことがあった。
彼女たちに「ん〜誰に預かってもらう??」と、なんの気に無しに相談したら
長女が「私は荷物じゃないよ^^」と、穏やかに微笑んだ。

どきーーん!
「親としての一定の責任を他者に預ける」と言う内包された意味はあるけれど
子どもは「預ける」は「荷物」に使う言葉で、「人間に使うべき言葉じゃない」と指摘された。「わたしたちは荷物じゃない」ってそりゃ感じるよね。

大人って、そう言うニュアンスの言葉を使いがち。
「預ける」もそうだし「〇〇をやらせたいと思って」とか
「お風呂にはいらせる」とか「言う事を聞かない」とか「寝かしつけ」も
“子どもが一人でできない前提”で
大人のタスクになっている言葉たち。

長女から指摘されて、「子ども扱い言葉」を意識するようになった。
この言葉は、子どもたちを「人間扱いしているか?」

もちろん、思わず使ってしまうこともある。
言葉には、どうしても意識が乗ってしまうから「イテテ」と思うけど、
たまにのそれはそれで、仕方がない。意識しすぎるのも不健康。
けど、ちょっとだけ意識するだけで、子どもとの関わり方の中で
どれだけ「未熟なこども」扱いしているか、
自分で気づけてしまう。好奇心の延長で気づけることが、宝物なのだ。

とはいえ、当たり前に使いすぎると、子供の自尊心に小さく傷をつけていくと思っている。それが人前だったりすればするほど、その傷は大きい。
そして「未熟な自分」で許されるので「指示されないと行動できない」ようになったり、反面、これ以上自尊心を失いたくないから「反発や反抗」など、
不機嫌な態度をとったりする。
そうすると親も手間がかかるし、不機嫌になるしかない悪循環の関係が生まれてしまう。つまり「大事にしてよ、信頼してよ、愛してよ」なわけだからとても切ないんだけどね。

私は少しづつ、そう言う言葉を手放していった。意識は言葉にくっついていたから言葉を選べば一緒に離れていった。
「〇〇させる」事は「〇〇してもいいし、しなくてもいい」になった。
自分で選んで、やってみる。
やってみて、その先を知って、やっぱりこうしてみようとか、
幼くても自分の人生の舵を握ってもらう。
小さい子の方が、自分の体と感覚がつながって居るから
素直にシンプルに「自分流」を導き出している。

私も親だし、人間。
子どもたちは子どもだけど、人間。
そしてどちらも、可愛すぎる未熟者だ。

もちろん、力や体の大きさ、経験値は大人の方が持っているけれど、
4つの感情、喜怒哀楽は、お互いに素直にぶつけ合っていたい。
尊敬する気持ちと、素直な感情表現を忘れなければ、
誰よりも子どもたちの前で私は“私らしく”居させてもらえる。

そして、そういう態度でいると
子どもたちは敏感にキャッチして
反応してくれる。
人間扱いをすると、いいことばかりなのだ!

感謝や応援がすごい循環するし、
どんな気持ちも出し合うから「他所では言えないこと」も溢してくれる。
感情の中には「よくわからない」ものもあることをお互いに知っているし、
そう言う間柄だから「責任」を自分で取れる喜びも知っている。

私は「〇〇させる」必要がまるでなくなり、
「そろそろ9時だねぇ〜」と時間を告げるだけで、「ゲームをやめて」「寝る」のか、「もうちょっと遊ぶのか」自分で気づいて選んで動くので、それに任せる。
朝起きるのも自分達の責任で。

親の私ができることって、本当にほとんどなにもない。
ご飯を作るくらいで、あとは一緒におしゃべりして大好きだよと抱きしめるだけで十分に子どもが成長する栄養が賄えてる気がするし、
一家がみんなゴキゲンで過ごせる。
最低限の育児をこれからもお届けしていきたいと思います♪

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