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アスリートに「五輪中止」を声高に叫ぶ人たちへの強烈な違和感

本当に選手たちのことを考えているのか

 この記事は、「池江璃花子選手の復帰に便乗し「五輪開催」を声高に叫ぶ人たちへの強烈な違和感」(2021年4月22日)という記事に反応したものだ。

 こちらの記事では、池江選手の復帰を肯定的に捉え、五輪の開催への想いを強くする人々を「池江選手を持ち出してマウンティングする人たち」と呼称しており、強烈な違和感を持った。

五輪にかけるアスリートに「死ね」

 東京オリンピックに対するアスリートの想いはまちまちだが、一様に、五輪に向けて努力を重ねてきているのは確かだ。体操の内村航平選手は、日本テレビの取材に対して「もしこの状況で五輪がなくなってしまったら、大げさに言ったら死ぬかもしれない。それくらい喪失感が大きい。それだけ命かけてこの舞台に出るために僕だけじゃなく東京オリンピックを目指すアスリートはやってきている」と、その五輪への想いと、中止となった時の喪失感の大きさを語った。

 しかし内村選手の意見は、五輪中止を叫ぶ人々にとって、五輪推進派の後押しになったと映ったのだろう。中には「死ね」と心無い言葉を投げかける人もいた。

 なお、このような中傷を疑問視するような記事は見かけなかった。他にもある。

 アスリートに「自主的に考える力がないのか思考停止しているのか」「自分たちはコロナや生活苦で亡くなった多くの人々の屍の上を泳ぎ走るのだ、くらいの想像力は持ってほしい」「運動神経だけ発達して人としての成長がない」と言い放っている。状況が厳格に管理されるであろう五輪アスリートにこうも無慈悲な言葉や暴言を投げかける様子を見ると、想像力が無いのはどちらだろうかと言いたくなる。

 さらに、スポーツ界では有観客の開催実績も積み上げられており、これは日本に限らず、早期の経済再開を目指す世界的な流れだが、「Jリーグ・プロ野球は五輪に向けた実績作りの道具にされているだけ」という真偽不明の意見にスポーツ関係者が肯定的に反応するという事も起こった。

 五輪に向けた実績づくりというより、経済再開に向けた実績作りと言った方が正しいだろう。新型コロナウイルスを撲滅してから実績を積み上げて間に合うのだろうか、そしてそれはいつになるだろうか。可能だという判断がついた時点で実行に移していくべきではないか。

 既に多くの大会が開催されている中、それらの大会でどのような感染事例や成功例があったかはほとんど論じられず、単に五輪のリスクを強調しているだけの意見を多く見る。SNSでは、五輪に関わるアスリートのニュースに対して、頻繁に五輪の開催の是非について書き込まれているのを目にするし、上記のツイートのようにあえてアスリートの存在を絡めてアスリートの努力を精神面で否定するかのような空気を作ろうとしているのを見ると、わざわざアスリートを巻き込むその必要があるのかという疑問を持つ。

 アスリートを強く絡めて「五輪中止」を求める意見には、五輪が近づくにつれ盛り上がりを見せる風潮を断じて許さないという強い意志を感じる。

政治的思惑に巻き込まれていこうとしている

 マスメディアによるアスリートの政治利用の事例は枚挙に暇がない。森会長が不適切発言をした際、スポーツ大会時に会見で、マスメディアは森会長の発言に対する意見を求めた。

 競技とは「関係ない」動きであるが、発言の内容によってその日のニュースとして取り上げられるかどうか決まると思えば、マスコミは専らアスリートを道具としてしか見てないのではないか。そして現状、五輪に反対する意見はマスコミによって持ち上げられるだろうが、五輪に賛成する意見は口にしづらいのではないだろうか。

 自ら五輪への想いを多く語った内村選手に対して様々な意見が出るのは当然だろうが、全体的に、アスリートが政治の世界へ引き込まれているという印象を受ける。基本的に自民党政権への否定的な報道が目立つ中では、主に反五輪に向けた材料としての利用が主だろう。

五輪は「称賛されない舞台」へ

 池江選手が東京五輪への出場権を獲得したのは記憶に新しい。「オリンピアン」という言葉があるように、オリンピックは出場できるだけで価値がある場だ。だが、「2020年に予定通りに東京オリンピックが行われていれば、池江選手はもちろん大会には出場できなかった」「例え東京オリンピックに出場できなくても別の大会に照準を合わせて、復帰のために努力を積み重ねたはずだ」とまで書く記事もあった。五輪に出場する価値を軽視した例で、五輪への想いを踏みにじり、「アスリートであろうと五輪を盛り上げようとするな」と言わんばかりの書きぶりだ。

 五輪というのはアスリートにとっては間違いなく大きなモチベーションだ。しかし反五輪を叫ぶ人々にとって、五輪はもはや称賛される場ではない、称賛されるべきではない場になったことが分かる。これが違和感の正体だ。スポーツ大会における感染対策を論じるまでもなくこういった意見が出ていることを考えると、これは専ら自身の政治的主張を正当化し、そして伸長することを目的にしている事になる。

 アスリートに政治的行動を求める風潮が大きくなれば、五輪に出場することそのものを放棄するよう求める意見が出る日も近いのではないだろうか。

ネガティブ思考の蔓延が目的か

 日本では一部で「ぜいたくは敵だ」といった風潮が蔓延っていると感じる事がある。政治家の数万円の会食が批判されたり、菅首相が現在は約3千円のパンケーキをよく堪能しているとの話に批判が巻き起こったこともあった。今回の五輪も「みんな苦しんでいるのに五輪かよ」という風潮が醸成されつつあるように感じるが、何か為そうとするたびに、多角的な分析や対案無しに「無理だ、諦めろ」といったような意見が出るのを見ると、日本を諦観が蔓延る国にしたい人が大勢いるように思われる。

 例えば「五輪を開催できるように団結して夏までにコロナを減らそう」という声の方がずっと明るい。昨年秋に感染者を少なく抑え続けられたように、これは不可能な事ではない。仮に五輪が中止になれば、日本にとっては大きな損失だ。関係者の強い無念さが残り、日本は「諦めの国」へ近づいていく。常に何かを否定して、一体そこにどんな理想があるのだろうか。

 自民党政権のやる事なす事すべて批判する人々は野党勢力の伸長が目的なのは言うまでもないが、日本を「諦めの国」にして成立する政治は、国民にどれほどの恩恵をもたらすだろう。

五輪の感染対策

 これまで複数の有観客大会が開催されてきたが、そういった大会が原因となった感染者はどれだけ出ただろうか。おそらく五輪よりも多くの人が移動した「GoToトラベル」事業の真っただ中にあった昨年秋は、日本でどれだけ感染者が出ていただろうか。「殺人リレー」とまで言う人もいた聖火リレーで現状どれだけのクラスターが確認されているのだろうか。

五輪のコロナ対策会議では感染症の専門家が参加しており、現在も五輪の開催に向けて政府や関係機関は多くの事例を参考にしているだろう。五輪は経済再開の通過点に過ぎず、現状を差し置いて3か月も先の五輪を批判するならば、相応の検証も必要だろう。「自粛を強いられているのに国は五輪フィーバー」と捉えて反発したくなるのも分かるが、「自粛疲れ」が指摘され経済の再開を望む機運も高まっている中では、五輪に対して肯定的な視点での慎重な分析も必要な段階にきていると強く感じる。

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