人はどう生きるか【道徳法則、究極の生き方を追求したイマヌエル・カントに学ぶ】

道徳法則、究極の生き方とは何か

道徳法則を考える前に考えなくてはならないことがある。

それは、「自由とは何か」と言うことである。

自由を思い浮かべるときに、食べたいときに食べ、眠りたいときに眠ることを思い浮かべる。

しかしカントは、生理的欲求、因果律に支配されているのは、動物と変わりなく理性的ではない、自由ではないという。

人間の自由とは、自分の行動の正しさ、道徳的価値を理解して、自分でそう行動すると選択して生きるところにある。

そして、この自由や道徳法則を大切にして生きることこそ、究極の生き方だ。

大切にすべきは、自分だけのものではなく、周りのみんなの自由や道徳法則もだ。

学校の道徳の時間で習ったから、親が言ったから、権威ある人が言ったから、成功している金持ちが言ったからと、無批判に受け入れることに、道徳的価値はない。支配されている。自分で考えて、認識して行動してこそ、自由である。

では、道徳法則とは何か、具体的な例で考えてみよう。

具体的な例

お年寄りに席を譲るときに、かわいそうだからと親切にしよう思うだけでは道徳的価値はないとカントは言う。それは、自分の感情を鎮めるため、自分のことしか考えていない行為に過ぎない。相手の幸福につながることかどうか考えて判定して行為するときに、初めて道徳的だと言える。

違う例を考える。誰かが、フェイクニュースのような嘘を自分のウェブサイトの流し、アクセス数を集めて広告収入を得たとする。その理由が、リストラにあって貧困に陥っていていたり、子供の学費を稼がないといけなかったりという環境を理由にするときに、それはかわいそうだなと思う感情が芽生える。

日本では、フェイクニュースは特定の誰かに損害を与えない限り犯罪にはならない。しかし、これが窃盗や殺人の時ならどうだろう。かわいそうだからと許していては罪に問うことはできない。

人間は自由に行動できる。全く同じ状況でも、嘘は良くないからやらないとの行動の選択もできるからだ。

カントは、物事の認識の仕方を、感情を解した現象と、理性で考える客観的なもの物自体の二つに分けた。そして、人間の自由は客観的にある物自体側にあるとした。

人は、自由に行動できる。理性を持って判断する道徳法則を持つことができる。その上で行動した結果、犯罪を犯したのであれば、罪を問える。

カントは言う。そうはいっても、人間は常に正しし判断をできるわけではない。なぜなら人間は二重性を持っているからだ。感性である欲望と理性である道徳の二重性である。だからこそ、他の人の幸福につながるのかをも考えて初めて、道徳法則となるのだ。

自分の成長と他者の幸福

行動を起こすことで、自分は成長できるのか、他の人の幸福につながるのか、この2点を考えて、自分の行動のルール、道徳法則を決める。

そのルールは独りよがりなものではなく、他の人間みんなに採用されるようなものでなくてはならない。

何故なら、自分だけではなく、一人一人が自由意志を持つ存在であり対等だからだ。

感想

これまで書いてきたことは、NHKの100分de名著『純粋理性批判』で知り得た情報によるものだ。

以前に、テレビ番組で、ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルがカントを語っていたのだが、さっぱりわからなかった。しかし、現在のネット社会になり、何でもすぐに調べられるようになり、便利になったことに危機感を抱いていたガブリエルの発言に惹かれた。

webライターになろうと、特に何も考えず、何も知らずに仕事を始めた自分は、自分の成長を考えているかもしれないが、他人の幸福のことはどうだろうか。

ウェブの世界の住人であっても、現実の世界でお金を稼ぐ人と同じように努力や経験や訓練で身につけたもので働いている人たちがほとんどだ。

現実の世界でも同じたが、どの世界の片隅にも怪しさや危うさやずるさがある。それをビジネスと呼べるのか。わからない。どんな世界でも、理性を働かせた判断で、人に踊らされることなく、お前のせいだと後で吠えることをしなく、生きていかなくてはならないと思った。

私は、私の道徳法則を、ことあるごとに見直し修正していかなくてはならない。

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