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内海哲也ドラフト答え合わせインタビュー全文公開!【前編】本気で練習したプロ1年目。その後のメンタル的支えにもなったメニューとは……

絶賛発売中の『別冊野球太郎ドラフト答え合わせ1998-2022〈増補改定・完全保存版〉』では、NPBの現役から離れた6名のインタビューを行いました。
嶋基宏(元楽天、ヤクルト)、坂口智隆(元近鉄、オリックス、ヤクルト)、内海哲也(元巨人、西武)
白濱裕太(元広島)、寺島成輝(元ヤクルト)、吉持亮汰(元楽天)
アマチュア時代から取り上げてきたからこそできる、内容の濃い、プロ生活を振り返る「ドラフト答え合わせインタビュー」ができました。

noteでは本誌4ページに収まりきらなかった部分も含めた全文を前編・後編に分けて、公開しちゃいます!
【後編はここをクリックしてください】

 ●苦難が続いた高校時代

──昨年までの現役生活、お疲れさまでした。
内海 ありがとうございます。
──今回は、内海さんの野球人生について“答え合わせ”をするインタビューです。
内海 はい。お願いします。
──まず、高校時代ですが、『野球太郎』の前身誌『野球小僧』(白夜書房)のNo.5では、内海さんが高校3年の9月頃に取材陣が敦賀気比高を訪れ、小関順二氏によるインタビュー記事と、安倍昌彦氏がブルペンで内海さんの投球を直接受けて原稿にする体感記が掲載されています。特に安倍さんの体感記は、のちに『流しのブルペンキャッチャー』という名物記事になりますが、内海さんがその取材の第1号でした。
内海 そうなんですか!? でも、正直に言うと、取材を受けたことをまったく覚えていないんですよ。
──無理ないかもしれません。内海さんの高校時代は、いま振り返ると激動でした。春のセンバツ出場を決めていながら、不祥事が発生して大会直前に出場辞退。夏の福井大会決勝戦では福井商高に延長戦の末に敗れ、甲子園に足を踏み入れることができませんでした。秋のドラフト会議では、巨人からの指名を切望しながらオリックスに1位指名され、入団を拒否して社会人の東京ガスへ進みます。
内海 はい、そうです。
─いま振り返ると、高校時代はどのような投手だったと自己評価しますか?
内海 中学時代(京都田辺ボーイズ)は、体が華奢でエースにもなれず、変化球に頼る投球でした。その感じのまま高校に進んだので、入学当初は同級生のメンバーの顔ぶれを見て、「大変なところにきてしまったな」と思いました。同じボーイズリーグの他チームで有名な選手が結構いたんです。「高校でも補欠でベンチを温める役にまわりそうだなあ」と思ったのを覚えています。
──しかし、その後は北陸屈指の速球派投手に成長を遂げます。
内海 ストレートの球速や球質がぐんぐん伸びていったんです。球種はストレートとカーブだけで、ほとんどがストレート勝負。カーブは結構曲がっていましたが、コントロールはよくなかったので、その日ごと、という感じでしたね。投げてみてストライクが入ればOK。入らなければストレート中心でエイヤ! というスタイルです。それでも、苦労はしませんでした。単純にストレートで空振りが取れたので、そのストレートを狙ってくるタイミングでカーブを投げれば面白いように三振がとれましたから。
──高校時代の練習方法としては、投げ込みが多かったですか?
内海 はい。試合でもたくさん投げていましたし、基本は投げ込むことで作り上げられたものでした。
──当時の映像を見ると、プロ時代とはテークバックのヒジの上げ方が別人のように違う印象です。プロ時代はボールを握った左手が頭よりも高く上を向くような形でしたが、高校時代はむしろ下を向いていて、左手の位置が左ヒジよりも低く、両腕で“M字”をかたどっていました。
内海 まったく違いますよね。いま見ると、高校時代のフォームが一番キレイだなと思います。でも、僕的には現役を引退するまでずっと変えたつもりはないんですよ。
──そうなんですね!? この頃にご自身のフォームを映像で確認したり、メカニズムなど理論的なアプローチは?
内海 していませんでした。高校時代は、とにかく多くの場数を積ませてもったという印象です。その中でたくさん投げて、感覚としてつかんだものばかりです。まあ、僕はプロを引退するまで、ずっとそういう感じでしたけど(笑)。
──感覚派だったんですね。 

●オリックスのドラフト1位指名を拒否して東京ガスへ

──『野球小僧』No.5のインタビュー記事をいま一度読むと、ご自身の体が細いことを課題に挙げていました。「次のステージに向けて下半身強化や全身の筋力アップに励んでいる」というニュアンスのコメントが残っています。
内海 高校時代は、身長は伸びていきましたが、体重は食べても増えなかったので、体を作りたかったのだと思います。現在の高校野球は食事面の指導もすごくしているようですけど、当時はとにかく無理にでも「食べろ、食べろ」と言われるだけでした。そのため、食べることに関しては無関心というか、あまり好きではなかったです。
──故障したことは、ありましたか?
内海 大きな故障はなかったですね。ただ、3年夏の大会では肩が痛かったです。多分ですけど、そのときはオーバーワークによる蓄積で痛かったのだと思います。決勝戦の時は満身創痍でした。
──決勝で敗れて、甲子園への夢が断たれた時は、しばらくの間、ショックを引きずりましたか?
内海 いえ、結構すがすがしかったです。「無理やったか。でも、やり切ったな」という心境でした。むしろ、日が経つごとに悔しさがジワジワとにじみ出てきましたね。
──夏休みはどのように過ごしていましたか?
内海 この時だけは、すべてを忘れて遊んでいました(笑)。
──高校3年秋にはドラフト会議がありました。オリックスから1位で指名されましたが、入団はせずに東京ガスへ進みます。プロ入りするか迷った時期もあった、という報道もありましたが、いま振り返ってみて、「ドラフト1位指名を拒否した」ことについて、精神的にキツくなかったですか?
内海 いや、キツくはなかったですよ。「ジャイアンツに入りたい」という夢を追いかける決断を下したので、社会人で頑張って3年後に夢を果たそう、という気持ちでした。
──外野からの騒音などはなかったですか?
内海 まったくなかったです。いや、実際にはめちゃくちゃ言われていたのでしょうけど、いまほどネットの声がいやでも目に入ってくるような環境ではありませんでしたしね。
 
●ハイレベルだった社会人野球の世界

──東京ガスに入社して、社会人野球を最初に見た印象はどうでしたか?

内海 1年間だけ金属バットを使用していたんですよ。体の出来上がった大人が金属バットで野球をしているのを見た時は「ヤバい」と思いました。
──1試合でホームランが何本も出るような打ち合いが多かった印象です。
内海 極端に言うと、10点差をワンチャンスで返せるような野球をしていたので、衝撃でしたね。
──当時、印象に残った選手は誰でしたか?
内海 三菱ふそう川崎の西郷(泰之)さん。渡辺直人さん(現楽天コーチ)もいました。日産自動車の4番打者だった小山(豪)さんも覚えています。あと、シダックスでいったら、キンデランとパチェコとか。
──キンデランとパチェコのキューバコンビは、都市対抗で内海さんがシダックスの補強選手として加わった時にチームメイトでしたね。
内海 はい。シダックスには、その後、巨人で一緒になる野間口貴彦もいました。社会人では結構打たれましたよ。この頃は、球種もストレートとカーブしかなかったですし。高校時代はお山の大将でしたけど、社会人ではそうはいかない。すべての投球に対応してきました。アバウトな投球では通用しません。野球のレベルの高さを肌で感じました。
──それを受けて、ピッチングの考え方や練習など、高校時代から変えたことはありましたか?
内海 大きく変えたことはなにもなかったです。日々一生懸命練習に励むだけでした。強いて挙げるなら、フォークを覚えようとしたくらいですかね。
──誰かに指導を受けて、“目からうろこ”になったことは?
内海 広島や阪神の投手として活躍された片瀬清利さんが、僕の2年目まで投手コーチをしていて、いろいろと教えてもらいました。
──『野球小僧』No.14に掲載されている内海さんのインタビューで、下半身主導のフォームに変えるにあたり「ゆったりと体全体を持っていくような感覚」を教わったと書かれています。
内海 細かいことは覚えていないですが、ブルペンで投げている時を中心に、よくアドバイスをもらっていました。
──2003年のスポニチ大会で、内海さんの好投により東京ガスが初戦を勝利した試合を神宮球場で直接拝見しました。この年は秋のドラフト注目投手として、森大輔(三菱ふそう川崎→横浜)、香月亮太(東芝→近鉄)と内海さんで「社会人三羽烏」と報道されることが多かったですよね。
内海 ありがたいことに、その3人でよく取り上げてもらいましたけど、僕、本当に無頓着で。あまり感じないタイプでした。
──社会人時代の“答え合わせ”を総括すると、特別にスタイルを変えることなく精進したということで、“高校時代からの延長戦”という感じでしょうか?
内海 そうですね。でも、社会人時代はあまりいい思い出がないんですよ。1年目は、まあ体作りやフォーム作りが中心で、2年目から試合で投げるようになっていきましたが、レベルが上がって苦労したし、故障していたことも多かったので。
──3年目は自チームが都市対抗出場を逃してしまいましたが、シダックスの補強選手として、準優勝という経験もされていますが?
内海 その時も登板過多で肩を痛めていて、ほとんど投げられなかったですから。最後の日本選手権でちょっといいピッチングをしたくらいだったので。ただ、プロに進む前段階としてレベルの高い社会人野球の経験を積めたことは、本当によかったと思っています。
──再び投球フォームの話で恐縮ですが、3年目のスポニチ大会で見た時は、テークバックでボールを持つ左手が頭の位置より高く上がっていた記憶があります。グラブも投げる方向へ突き出すような動作をしていて、いま思うとプロ入り後の形に近づいていました。
内海 でも、僕自身はまったく変えている意識がなかったので。社会人で少し変わっていたことすら、気づいていなかったです。
──周りから指摘されることも?
内海 なかったですね。

●プロ1年目の夏に一念発起して個別練習を敢行

──社会人3年目、秋のドラフト会議が迫ってくる頃には、プロでやっていくための手応えはありましたか?
内海 いや、先ほど話したように都市対抗の頃まで肩を痛めていたので……。その後、日本選手権でいい投球ができたので、それで何とかという感じはありましたけど、「これでいける」というほどの手応えはなかったかもしれないです。
──すると、実感できたのは、自由獲得枠で巨人から正式にドラフト指名された時ですかね?
内海 そうですね。「ここからが勝負や!」と思っていました。
──巨人に入団して1年目は基本的にファーム中心でした。プロの野球を目のあたりにした実感は、どのようなものでしたか?
内海 いま思うと、1年目の最初の数カ月は「ジャイアンツのユニフォームを着られた」だけで満足していました。それどころか、周りを見るとすごい選手ばかりだし、「この世界で長くやっていくのは到底無理だろうな」とほぼ諦めていた時期もありました。でも、「こんなことではダメだ」と夏前頃に思い直して、「通常の練習が終わったあとの人がいない時に個別練習をしよう」と決意したんです。
──それは、高校、社会人時代になかったモチベーションですか?
内海 そうかもしれません。高校時代にも、中山国久という同級生のライバル(現在は内海さんがプロデュースする『酒楽屋 うつ海』の店主を務めている)が日頃からコツコツ練習するタイプで、その姿に「やはり、努力しないといけないんだな」と身に沁みてはいたんですけど、さらに拍車をかけて「やらないといけない!」と強く思ったんです。
──個別練習は、具体的にはどのような内容でしたか?
内海 ポール間走を10本。そのあと、シャドウピッチングの一種で“股割り”ってあるじゃないですか?
──踏み出し足を上げたあと、テークバックを作りながら、投球方向にステップする練習ですね。
内海 はい。それで一歩一歩進むようにして、両翼のポール間の直線距離を片道1本。毎日やりました。技術的にもメンタル的にも、自分の中で自信を持てるものを作らなくては、と思ったんです。これを続けたことで、その土台が作られました。
──成果として実感できるようになったのは、いつ頃でしたか?
内海 しばらくしたらすぐに。ファーム戦でマウンドに立つと、「これだけやったんだから、打たれるわけないでしょ?」という気持ちになれました。精神的に安定してきた相乗効果で投げるボールもよくなっていき、そこからトントン拍子にいい方向へ進みました。その間、1軍に定着する頃まで、ずっと続けました。
──大きなターニングポイントになりましたね。

内海哲也プロフィール

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