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【WBC・侍ジャパンメンバーのあの頃】高校時代からずっと無邪気に、目標をことごとく叶えていく大谷翔平。あとはなにを成し遂げるんだ……

WBCことワールド・ベースボール・クラシックで日本一に輝いた侍ジャパン。世の中も大いに盛り上がり、触発されて野球熱が再加熱した方もいたことでしょう。
これから侍ジャパンの選手をNPBの試合で見たり、一球速報を追ったりする際に、アマ時代など選手のバックボーンを知っていると、よりおもしろく、より選手に愛着を持てるはず!
ということで、そんな選手の背景がわかる『野球太郎』の過去記事を公開します。

今回は大谷翔平(エンゼルス)です。前振り文などいらない超人のドラフト会議直前に行い、『野球太郎No.002 2012ドラフト総決算号』に掲載したインタビューをご覧ください!
(取材・文=武藤桂子)

日本ハムが決死の強行1位指名
大谷翔平独占インタビュー

160キロ右腕の決断

 10月21日、多くの報道陣の輪の中心で大谷翔平は葛藤の末に下した決断に胸を張った。
「アメリカでプレーさせていただきたい」
 言葉をしっかり噛みしめながら、視線を一切ぶらすことなく、真っ直ぐに前を見た。
 この会見の直前まで両親と監督と話し合いをしていたそうだが、報道陣の前に現れた大谷の顔にもう迷いは見られなかった。自分の意思を貫けた喜び、結論が出て迷いから解き放たれた安堵感、未来への大きな希望、さまざまな思いが表情からにじみ出ていた。
 この会見のわずか数日前、『野球太郎』編集部Kさんと共に花巻東を訪れていた。
 慌ただしい時期にも関わらず、大谷は取材に応えてくれた。もちろん「日米どっちにするの?」などと野暮なことを聞くつもりはなかった。シニア時代から気にかけてきた金の卵の「今」と、全国に衝撃を走らせた超高校級球児の「未来」を、大谷翔平の高校野球生活を見守り続けた集大成として取材させてもらいたかった。
 40分ほどの短い時間ではあったが、「メジャーリーグ」や「アメリカの野球」の話題が出てくると、大谷の顔はいつも生き生きとしてきた。決断の迷いは見受けられたものの、思いのウエートが日米のどちらに傾いているか、顔を見ただけで伝わってきた。
 会見から4日後のドラフト会議では、日本ハムが予告通り指名を敢行したが、本人は「両親と相談すると思うけど、意志は変わらない。自分の考えとしてはゼロです」ときっぱり言い切った。「アメリカに渡る」覚悟と意志の強さを感じた。
 この3年間、決して順風満帆ではなかったが、衝撃のデビューからケガを乗り越えての大記録、貫いた夢のための意志、掲げた偉大な目標を一つひとつクリアできたことは、素材の高さはさることながら本人の真摯な取り組みの賜物だろう。
 あらためて、岩手から羽ばたこうとしている「球界の宝」の高校時代を振り返りたい。

初めての単独取材

 いまから約2年前、1年秋の東北大会の後、もうだいぶ寒くなってきた時期だった。今回と同じく編集部Kさんと筆者のコンビで大谷翔平のインタビューをさせてもらった。
 実はこの時、試合後の囲み取材以外では初めて取材を受けるということだった。マウンドで見る堂々とした姿とは違って、初々しい高校1年生。当時は線が細かったため、いまのように「大きい」というよりは「スラッ」とした感じ。野球が大好きという思いが端々から伝わってきて、「純朴で素直な岩手の少年」という印象だった。
「あの時は初めての取材だったので、たぶん質問されたことに対して、(趣旨とは)違うことを答えていたかもしれません」
 当時を思い返して本人も笑うが、その時から将来の目標に掲げていた「世界に通用する投手になりたい」という言葉が決して大言壮語には聞こえない、不思議なオーラが漂っていた。
 高校球界で本格的に名が知れ渡ってきたのは恐らくこの頃。1年秋、東北大会の初戦・学法福島戦でリリーフ登板し、147キロを投げて一躍注目の投手となった。もちろん、その数値もすごいのだが、190センチを超える身長、ムチのような全身のしなやかさと強靭さに多くの人が衝撃を受けたはずだ。私も、編集部Kさんもその試合のピッチングを見て瞬時に虜になった。
「まだ1年生だけど、どうにか取材をしたい。もちろん、今後のプレッシャーや慢心へつながらぬよう派手に取り上げはしないので」
 と佐々木洋監督にもお願いして、取材を了承してもらったのだった。
 その後は、あっという間に「注目の球児」から「ドラフト1位確実の右腕」に成長した。注目度と比例するように、取材を受けることも増え、大人への対応にもすっかり慣れていたようだった。
「取材の機会が増えて、前よりはちゃんと受け答えができるようになったと思います。誘導尋問のように、この質問に対してこんなことを言ってほしいのかな? と思うような聞かれ方もしますが、自分の言いたいことを言えるようにもなりました」
 多くの人が「未来の大スター」を取り囲むようになったが、大人たちの言葉に簡単に流されることはない。
「意見を聞かな過ぎるのはよくないと思います。聞くところは聞いて、自分がいいと思ったことを取り入れる。周りの意見を参考にすることと、自分の決めたことを実行すること、そのバランスが大事。自分は自分自身が納得できなければ行動したくないタイプなんだと思います」
 人の意見を取捨選択して、ぶれない軸を持つ。菊池雄星(西武)も高校時代に同じようなことを話していた。一流の投手になるべく奮闘する大先輩から、いい部分を受け継いだなと感じさせられた。

センバツから変貌した今夏

 2年生の春には「花巻東から雄星に続く逸材が台頭」とすっかり注目を浴びていた。花巻東は夏の甲子園出場を勝ち取ったが、大谷は夏の大会前に痛めた左股関節の故障が尾を引き、初の甲子園では下半身を使えず、納得のいく内容・結果は残せなかった。治療をしながら迎えた秋は登板はなかったものの、打者として貢献し、他の投手陣の力投もあり2季連続で聖地を踏めることになった。
 冬場は夏と将来を見据えて、ケガの治療に専念して体作りに時間を充てた。
「もう一度、甲子園に出られる絶対的な保証はない。3月には投げさせる」と佐々木監督は不安を抱えたまま、大谷をセンバツのマウンドに送った。
 藤浪晋太郎(阪神1位)との「190センチ超大物投手対決」と注目された初戦・大阪桐蔭戦は11四死球9失点の途中降板で敗退。150キロを投げて甲子園を騒がせたが、下半身をかばっているのか、明らかに上体が高く、本来の「大谷翔平」の姿は見られなかった。
「センバツや春の県大会も股関節は痛くはなかったのですが、踏み込む怖さがありました。だから無意識に上体も高くなってしまっていたんです」
 それからは夏の大会決勝にピークを持っていけるよう考えた。監督、コーチ、トレーナーの指導のもと、計画を立てた。踏み込みの恐怖心はダンベルを担いでのランジを数パターン繰り返し、徐々にダンベルの重量を上げていき、「これなら大丈夫」という自信をつけていった。
「恐怖心は消えて、順調に段階を踏んでいったのですが、急激にはよくなりませんでした。特にフォームの部分で悩んでいて、このまま夏を迎えるのでは……とすごく不安でした」
 とにかく我慢の日々。不安と闘い続けて、ようやく成果は出てくれた。岩手大会開幕のわずか1週間前という直前だった。
「踏み込みが深く、広くなった時に上半身と下半身のバランスが合わなかったのですが、深くなった時にも上半身がしっかり連動するタイミングがつかめるようになったんです。本当に時間がかかってしまいました。この感覚が1カ月前にくれば、また違ったのかもしれませんが……」
 上体が低くなり、ステップ幅もかなり広くなった。しっかりと上体が股関節に乗って、スムーズな体重移動。大谷の長所であった全身の柔軟性もしっかり生かされたフォームが確立され、見違えるようにボールが変わった。

自分で自分の限界を作りたくない

 岩手大会の準決勝では高校最速となる「160キロ」をマーク。最後の甲子園こそ逃したものの、この衝撃的なニュースは瞬く間に全国を駆け抜けた。
 この「160キロ」という数値は以前から掲げてきた目標だった。1年時の取材で初めてその目標を聞いた時は、正直なところ達成するとは思いもしなかった。それほどとてつもなく遠い数字に感じられたからだ。しかし、最後の夏で大谷は本当に到達してみせた。
「常識にとらわれたくないし、自分で自分の限界を作りたくない。大きいことを成し遂げてみたい、と思って目標を立てました」
 花巻東の佐々木監督は常々「目標には必ずいつ、どのくらいといった具体的な数字を入れろ」と選手たちに指導している。目標を具体化することの大切さを実感して「この目標を立てて本当によかった」と大谷も振り返る。
 この「160キロ」に象徴されるように、大谷翔平の頭の中にはいつも「人がやったことがないことをやりたい」という欲求がある。そんな大谷の一番好きな授業は「日本史・世界史」だという。
「特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。『革命』や『維新』というものに惹かれるんです」
 そして大谷は穏やかな笑顔をたたえながら真っすぐにこちらを見つめ、こう続けた。
「自分も野球をやるなら、歴史に名を残す選手になりたいんです」

世界大会で体感した米国野球

 最後の夏。18U世界野球選手権で、高校野球の最高峰の仲間とプレーし、そして他国の野球にも触れることができた。
「フェアプレー、礼儀、迅速な攻守交代、一塁までの全力疾走など、日本の野球をあらためて魅力的だなと感じました」
 その一方で、アメリカの野球についてはどんな印象を持ったのか。
「アメリカは周りからはダラダラしているイメージも持たれるかもしれませんが、楽しそうにプレーしているし、パワーがあるし、体の大きさも違う」
 そんなアメリカ野球の魅力を体感しながら、もう一つの側面も目の当たりにした。大阪桐蔭の2年生捕手・森友哉が、ホームでのクロスプレーでアメリカの選手に2度もタックルされて負傷するという、日本の高校野球ではまず見られないプレーだった。大谷の目に、あのプレーはどう映ったのか。
「アメリカでは普通のことなんだと思います。こういう野球もあるんだな、と感じました。そういった場面の対策をすることも、うまさのひとつだと思います」
 もしアメリカでプレーするとなれば、文化や言語、そして他にも日米の違いは出てくるだろう。野球で直面する不安要素としてまず考えられるのが、アメリカのマウンドの硬さ。基本的に柔らかい日本のマウンドでの踏み込み方とは勝手が変わるだろう。せっかく苦労して身につけた体重移動が、一度リセットされてしまう可能性もある。そんな懸念を本人にぶつけてみた。
「いえ、合うかどうかというより慣れだと思っています。そういう意味も含めて、若いうちに慣れた方がいいと思うんです。だから不安はありません」

投手か、打者か

 日米のいずれかでプレーするにしても、天が二物を与えたが故に、直面する悩みがある。
「投手か、打者か」
 前号『野球太郎』での企画「スカウト20人に聞きました!」では、20人中12人のスカウトが大谷を打者として評価していた。投手として評価しているスカウトは、その半数の6人に留まった。大谷本人もその記事を読み、考えさせられたそうだ。
「自分の考えと周りの評価のギャップ、夢と現実のギャップを感じました。本当に投手でいいのか、打者なのか。悩んでいる面もあります。ただ、投手としてやりたい気持ちは強いんです。自分はまだまだ未完成で出遅れた面もあるので、投手としてどこまでいけるのか、やってみたい、という思いがあります」

日本のプロ野球は「夢の原点」

 ここできちんと言っておかなければならないことがある。
 大谷翔平は、日本のプロ野球に魅力を感じていないのではない。
「幼い頃からテレビで巨人戦などプロ野球中継を見るのが好きでした。初めて球場にプロ野球を見に行ったのは中学1年生の時。東京ドームで、いつもテレビに映っていた世界が目の前にあって、感動しました」
 煌々と光を放つ照明、青々と輝く人工芝、4万を超す大観衆の声援。球場の雰囲気を全身で浴びた。高橋由伸(巨人)がレフトスタンドにホームランを叩き込んだシーンは、いまも脳裏に焼きついているそうだ。
「いまでも日本のプロ野球に魅力を感じています。僕が一番最初に憧れて、ずっと目指してきた場所。いつかここでプレーしたいと強く思い、目標にしてきたから、いままで頑張ってこられたんです」
 では、なぜメジャーへ?
 大谷はメジャーリーグ中継を毎朝かじりつくように見ているわけではないし、アメリカの球場で試合を観戦して感動した、という体験があるわけではない。
 結局は前述したような「人がやったことがないことをやりたい」という大谷の欲求へと戻ってくる。
 しかし、考えてみてほしい。この欲求を持つことは悪いことなのだろうか?
 誰もやったことがないことをやりたい。これは一流のアスリートが持つ、当然の欲求なのではないだろうか。メジャーについて語る大谷の顔つきは、かつての「岩手の純朴な高校球児」ではなく、「パイオニア精神旺盛なアスリート」になっていた。
 大谷は日本のプロ野球を見限ったからメジャー行きを希望しているのではない。そのことを強調しておきたい。

応援してくれた方々へ

 メジャー挑戦表明前の取材で、大谷は「どちらに決断しても……」と前置きをして、こんなメッセージをくれた。
「いままでお世話になった方々、応援してくれた方々、花巻東を応援してくださった方には、どこでプレーをしても、結果を出すこと、勝つことで、初めて『感謝の気持ち』が伝わるものだと思っています。だから、1年目からしっかり目標を持って、1年目から結果を出すつもりで頑張ります。結果を残してこそプロだと思います」
 大谷翔平が日本球界でプレーするのか、海を渡るのか、それはまだわからない。しかし、いずれにしても、大谷自身が語ったように野球の歴史に刻まれるような選手になる日は必ず来ると信じている。これからもファンの一人として、心から応援していこうと思う。

(取材・文=武藤桂子)
野球太郎No.002 2012ドラフト総決算号』で初出掲載した記事です。