四字熟話【行雲流水】(こううんりゅうすい)

空に漂う雲や流れる水のように、自然にまかせせて生きること。世間の煩わしさを逃れて心のままに行動すること。
 
 
 
 地震を予知する方法は様々だ。水槽のナマズの生態を記録したり、ネズミの不審な行動を見つけたり、昆虫の動きを観察する生物系から、地下水の温度変化から予想したり、直接地面の微弱な揺れを観測したりするなど。
 当然のことながら的中率は100%とはいかない。マグネチュード7以上の地震が数年以内に起こる確立は70%~80%だと言われても、結局いつ起こるのかは解らないことになっているから、みんな腹を括って生活するというのが、日本に住む人間の嗜みとなっている。
 そんな地震予知を私の嫁は趣味にしている。
 その方法は地震雲の観察である。もちろん観察といってもただ雲を眺めているだけではない。それならいいのだが、ちょっと深入りしているのだ。いまでは家庭を顧みないほどに没頭していると言っていい。
 あれは私が単身赴任で大阪に行ってしばらくした初秋だった。会社から大阪支社の立ち上げ準備のため2年だけという期間限定赴任で、新婚でなく、子供もいない私に白羽の矢が立ったのだった。それでも土日だけは、東京に洗濯ものを持って帰るという週末亭主状態を会社は許してくれた。
 そんな生活が半年ほど過ぎようとしていたある日の終末。
「ただいま」
 と練馬にある自宅に帰ってきたが、いつもの「おかえりなさい」が無い。
 いぶかしく思いながら二階へ上がっていくと、開け放たれた襖から6畳の和室が見えた。するとそこには自分の帰宅に気づかない嫁が、大きく開放されている窓から、大空を熱心に眺めながら、なにやらノートをつけているのだった。床には大きな地図が広げられている。
 ふと心地よい秋の風が吹き込んで来た。
「おいっなにやってるの?」
「あっ、お帰りなさい。見てハッキリ出てるわよ、地震雲」
「地震雲?」
「地震の前兆として放射状の雲が出るのよ、ほら見て」
 嫁は私を窓際へと誘った。言われるままに窓から空を仰ぎ見れば、雄大な帯状の雲が空一面を覆っていた。
「すごいね」
 思わず私は言った。
「スゴイでしょ。この方角だと北関東あたりじゃない。茨城とか」
 よく見れば地図は関東から北日本をカバーしていた。そしてなにやら赤いポイントや数字が書き込まれている。
「なにが?」
「だから地震が起こるのよ。ほらよく見ると雲の帯びが大きく曲がってるでしょ。それをそのまま大きく円を描いたその中心当たりが震源地になるのよ。今日あたりから1週間以内かな、いや4~5日かも」
 もはやいっぱしの予言者である。
 地震なだけに自信に満ちた嫁の興奮に比べ、私は雲の雄大さと空の青さに、すがすがしい気持になっていた。
 夏ほどでもないがまだ太陽の匂いのする空気を鼻腔から大きく吸い込んだ。
「いいな、雲は。プカプカ浮いたり、流れたりして、自然に生きるっていいな」
 しばらく私は空に見とれていた。都会で味わえる唯一雄大な大自然が空なのだと思った。
 気が付けば嫁の声が下からしていた。
「洗濯物これだけでいいの」
 一瞬にしてその声は、私を小さな現実に返していた。
 その日からちょうど5日目の朝、会社の寮の食堂にあるTVに地震速報が流れた。果たして嫁の予知はドンピシャ当たったのだ。
 それから2日後となる帰宅する前日の朝、突然嫁から携帯にメールが入ってきた。
「突然ですけど、明日から地震雲の関係で同好の人達に会うために長野に行ってきます。ゴメン。あさって帰ります」
 普通の旦那なら怒るのだろうか。私はなぜか怒る気になれなかった。単身赴任している身としてはやはり立場は弱い。
 私はある日の嫁が言ったことをふと思いだした。
「そろそろ子供が欲しいけど。子供のことは、単身赴任が終わってからね。いまは落ち着いて出来ないし、ワタシもあなたもフ(任)(妊)ニン中ってことね」
 夕食の後、お茶を啜りながらフヌケとなっていた私にそのダジャレは不意打ちを食らわしてくれた。
 嫁としてはめいっぱい明るく装って言ったつもりだったのだろうが、私は笑えなかった。代わりに、
「上手い!」
 と、私としてもめいいっぱいおどけて返していたのだった。
 だが、次の瞬間なにやら胸騒ぎを催させた。地震のことでは無い。嫁がどこか雲の彼方へでも行ってしまうかも、という一抹の不安である。
 具体的には要するに家出をしちゃって、自宅のダイニングのテーブルには「もう疲れました。追いかけないでください」みたいな置き手紙があるようなそんなイメージである。
 翌日はいつもより早い新幹線で帰京した。はやる気持ちを抑えながら、東京駅からの電車のスピードもいつもより遅く感じられた。
 我が家に到着すると、玄関のドアのカギ穴にやや強引にカギをねじ込み回して、ドアを開け玄関に荷物を投げると、私は靴も脱ぎ散らかしダイニングへと駆け込んだ。
 果たして手紙は置いてなかった。胸をなで下ろした私は深く息をついた。
「帰ってたの」
 嫁の声である。
「あっ結局、行かなったの」
 全身の力が抜けていくのが解った。
 そしてそのとき私は、地震よりもなお怖いなにかのあることを悟ったような気がしたのだった。

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