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9/19上演の新作『光の外』について キーワードブレスト

新作『光の外』は「目隠しして何が出来るか?どんなものを見せられるか?」を探る身体表現作品です。

ここからはブレインストーミングをシていきます。これからもっと深めるためのステップです。

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まずもって「視覚障害者」を表したいわけではない。目隠し=視界を絶ったということは一つのメタファー。目が見えない体自体を観てもらいたいわけではない

視覚が無いなかで、ものを触る、臭いを嗅ぐ、耳をすます、そういったことに集中することで観客にも視覚以外に意識を集中させてもらいたい。

視覚が無く行動する人間、視覚が無いからこそ他の感覚には鋭敏で、そこは視覚が有る者よりも優れているのかもしれない。それは映画ドント・ブリーズでも挙げられていたが。

ただそれでも視覚が無いということはこの社会では短所であり欠陥と言われる。かく言う私もこれを目で見て書いている。視覚に頼る部分の肥大化した技術、文明、文化、人類、社会。

目が見えなくなることは足腰が弱くなることと同等に「衰え」の象徴でも有ると思う。老い、白内障、緑内障、視野狭窄、網膜剥離
斜陽なる人体。斜陽なる日本社会、欠陥は減っては増え、むしろ顕になってきている。

作品中に登場する人間(つまり私が扮しているわけであり、目隠しをシているわけだが)は「自らすすんで目隠しをした」のか?それとも「自らの意志に関わらず視覚を失った」のか?(演劇的な、演劇的な発想)

視覚を自ら絶ったとすれば?もうなにも見たくない。見えなくていい。見るよりも「価値がある」ものが視覚を失くした先にあると気づいた?

どれかと言えば「見る以外のことが見ることよりも価値がある」と気づいたから視覚を手放した、としたい。しかしわたし的にはそれは不自然に思える。むしろ「視力を失ったが故に視覚以外のものの価値に気づいた」と考えたほうが腑に落ちる。

欠陥の先駆者、衰退の先頭ランナー、暗闇の愛好家

見えなくなったなら、それまで見ていたものを思い浮かべ続けるか、未だ無かったものを想像し続けるか。

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