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20.11.21【週末の立ち読み #7】僕らは孤独だ、母胎の中に閉ざされながら 〜竹宮惠子『地球へ・・・』全3巻(中公文庫)を読む〜

 宇野さんの『母性のディストピア』(早川書房)を読み終えてから、母性社会というものについて考えていた。

 そのためにまず消滅したか、あるいは矮小化したとされる父性なるものの系譜を遡り、ちょっと寄り道をしながら黙々と関連図書を読み漁っているような状態だ。
 本当は、河合隼雄の『母性社会日本の病理』をきちんとピックアップしてもよかったのだけど、こういう話題を追っていくと必ずと言っていいほど出てくるのはユングとその弟子エーリッヒ・ノイマンだった。ノイマンは『意識の起源史』や『グレートマザー』の著書で有名なのであるが、こちらは実は萩尾望都さんを初め、当時の創作者でそれなりに読まれていたらしい。

 それで、ふと、萩尾望都から竹宮恵子へと思考がずれた。

 奇しくも『父滅の刃』の感想を書いたときに、「母性のSF化」を書いたばかりである。僕はこのフレーズを思いついた時、真っ先にウォシャウスキー姉妹の映画『マトリックス』が念頭にあった。母権制(マトリズム)に関連する語彙として、母胎(マトリックス)が存在するからだ。
 けれど、待って欲しい。別に『マトリックス』以前から、父性の失墜と母性の台頭が起きているはずなのだ。年代的には大体1970年代以降、もっと言ってしまえば『風の谷のナウシカ』や『機動戦士ガンダム』がブームを起こしつつあった、1980年代だろうか。

 そのころの少女漫画(という枠で語っても仕様がない気もするけど)には、通称「24年組」の漫画家が活躍していたのである。
 ところで、図らずも僕は学生時代に、CLAMPなどを経由して、少女漫画SFの世界に入っており、萩尾望都や竹宮恵子の作品にのめり込んでいた。『11人いる!』や『スターレッド』、『百奥の昼と千億の夜』。そして『地球(テラ)へ・・・』

 今夜はたまたま手元にある、竹宮恵子の『地球へ・・・』のことを書いてみようと思う。何かヒントが得られるかもしれない。

 XXXX年──
 ありとあらゆる地に住みつき
 ありとあらゆる自然を克服してきた
 ホモ・サピエンスたちは
 もう 長い長い時代
 天敵の存在も知らず
 わが世の春を ほしいままにしていた
(中略)
 しかし 急速に衰え始めた
 地球自体の生命力だけは
 どんな研究も空しく
 とりもどすことができなかったのである
(中略)
 老い行く地球(テラ)の足もとに
 なすすべもない人類は
 何度も移住の計画を立てては廃棄し──

 ついに 人間たちこそが
 地球(テラ)を窒息させるのだという結論に達した

 地球を遺棄するくらいなら
 人間たちの変革も辞さないと

 そして他星移民の奨励
 出産の規制の後

 S・D(スペリオル・ドミナント)時代に入る

 特殊政府体制(スペリオル・ドミネーション)──

 それは完全なる生命管理の社会体制であった──

 ──竹宮恵子『地球(テラ)へ・・・』(中公文庫)7~10p 文言のみ

 長い引用だったが、世界観はなんとなく了解してもらえただろうか。

 物語は上述の背景を元に誕生した管理社会に生きるジョミー・マーキス・シンと、キース・アニアンという2人の男を中心に展開する。
 この世界ではミュウと呼ばれる超能力者がいる。人の心を読み、歳を取らず、念力を発することができるエスパーだ。彼らは感受性が強く、力を持っている。故に、SDの体制はこれを恐れ、検査し、間引きして自分たちの安全性を担保しようとしている。

 物語の序盤は、ジョミーが14歳の成人テストを受けるに当たって、ミュウと体制側の争いに巻き込まれていく過程から始まる。
 ジョミーはヤンチャな少年だった。感受性が豊かで、乱暴な盛りの少年。その一方で思いつきでぺらぺらと喋っては、思いやりに欠け、女教師や母親に見つかっては説教を受ける。

 かたや、第二部から登場するキース・アニアンは、超がつくほどのシステムの優等生で、周囲からもシステムからも期待されている。生憎エスパーの才能はないが、それ故に完璧に等しいレベルで、SD体制を管理するAI「マザー・イライザ」の申し子とさえ呼ばれている。

 この両者が長い年月を経て、ミュウと人類、システムと個人、理性と感情、完全さと不完全さの対立軸を描くように、交差する。その過程は時にゾッとするほど生々しい心情描写に彩られていて、読むものの心に、さながら奥歯に挟まったもののように不快な得体のしれなさすら残すのだ。

 すでに管理社会ものは、ジョージ・オーウェルの『1984』やオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』などがある。しかし、これらの作品の社会の性別は男だった。「ビッグ・ブラザー」だったのだ。
 しかし、これが嚆矢だったかはわからないが、この頃から管理社会の性別は「マザー」になりつつあったように思う。そこには、規範に従わないものは削除するという厳格さは残しつつも、表向きには市民を平等に愛し、慈しむという建前に基づいているようにも思える。

 僕は、この漫画連載時の当時の社会背景を正確には知らない。しかしセンター試験の先駆けである共通一次が1979年に開始され、現在に至るまでの大学受験制度が確立しつつあった頃と、年表上ではリンクしていることから、次のようなことが推測できる。
 それは子供間での優良/不良の選別がシステムとして機能し始めていたこと、そしてシステムの選定がその後の社会生活の安定を保障するようにできつつあったということだ。

 表向きには、平等に教育を受け、学力を向上させれば、システムの認可を受け、社会的に承認を受ける。しかしそれはシステムの認知を受けなければ承認が得られないということであり、「平等な」教育が前提とした暗黙の条件をクリアしないと、そもそも参加すらできないものだった。特に障害者と呼ばれるものは、テストの適性が異なるにもかかわらず、同じテストで能力を測られ、不良判定を受けたかもしれない。
 当時の障害者教育には「障害者は親の責任である」と教科書が書いていた時代でもあったらしい。ということは、親のストレスだって激しいものだっただろうし、当事者である子供は勉強づくしで感受性の吐口を持つことすら難しかったかもしれない。

 つまり、何が言いたかったかと言えば、管理社会の「マザー」とは、こうしたシステムがもたらした何かなのだ。それは戦後の日本社会が経済成長にかまけて企業戦士を産み出そうとした歪みなのかもしれないし、二つの大戦の名残や冷戦の構造を引きずったまま、時代の変化に付き合いきれなかったものたちの悲鳴だったのかもしれない。

 物語は中盤、後半となるにつれて、複雑さと残酷さを増していく。ついにミュウと人類の宇宙戦争にまで発展するのだが、その度にジョミーとキース・アニアンが対立し、対面する。
 時間は一定ではない。永劫とも思える長い時間が作中では過ぎ去り、ジョミーは永遠の少年のまま、キースは壮年の国家元首にまで上り詰める。

 だが、マザーの膝下で、マザーの指示を受けるのはキースの方なのである。システムに承認され、周囲の畏敬をかちえ、さらに自分の能力で状況と社会を判断できたはずの男が、それでもマザーの下にいた。本来的には永遠の少年として未成熟なのはジョミーの方だ。しかし、ジョミーはミュウのリーダーとして、言葉を少なくし、理解の及ばない場所へと進む導師に変貌している。
 この対比は一体なんなのだろう。成熟したそぶりを見せる大人の方が、実は母性のディストピアの住人であり、永遠の少年こそがその脱出者だというのだろうか。そこまでうまい話ではないはずだ。

 物語の最後で明かされるミュウと人類をめぐるSD体制の正体は、なんとも説明が付き難い。しかし、「人がマザー以上のものを求める」のであれば、その扉は開かれていたと言っていい。問題は、マザーが拡大し続けたこの現代社会で、その扉はまだ開けるのかということだ。サードドアでも探しにいく必要があるのではないか。

▼以下書誌情報▼

 『地球へ・・・』自体は何種類か刊行のパターンがあるのですが、今回は僕が所有している中公文庫版を紹介します。

読みやすさ:高(漫画であることやストーリーのシンプルさを根拠としている)
面白さ:高(素直に宇宙を舞台にした壮大な物語としておすすめ)
入手しやすさ:まあまあ(Amazonなどで入手可能と思われる)

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