魂を削る

初めに言うが、クソ長文。

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自分が目指したい音楽、感動する音楽って、人と違うのかもしれないってたまに思う。そういう話を他の人とあまりしないだけかもしれないけど。

自分が常に思っていることは、自分は中高生のコンクールでの演奏が好きになれないということだ。中高生の合唱部、とりわけ強豪校と呼ばれる学校の人達は、とても練習を頑張っている。大学生も社会人も考えられないくらいの時間とストイックさで練習をしている(そういう背景もあってか、全国アンコン本選の入賞団体は中高生がかなり多いように思う)。ただ、その演奏は、ものすごく感心はするし舌を巻くが、感動は出来ないことがほとんどだ。

それらの演奏は、リズムや音程といった、楽譜に書いてあることを再現するという行為において、これ以上ないほど正確で、統率の取れた演奏をする。こうなると本番における指揮者の役割は踊ることだけだな、と思うくらい、正確。そして、おそらく何回演奏しても全く同じ演奏になるのだろう。ナマモノのはずの音楽でこの再現性は科学も驚きだ。

ただ逆に、何回演奏しても同じ演奏、そしてそうなるんだろうなと感じさせる演奏というのは、不気味にも思う。機械的・工業的とも言えるかもしれない。太鼓の達人の最難関曲を全良するのを見たとして、多分とても驚くが、落ち込んだ時にその動画を見ても元気は出ないだろう(もちろん、出る人もいるかもしれないが)。

このような、最高レベルの音ゲーをする演奏は、(少なくとも今の日本の)コンクールでは評価が高いが、感動できない。コンクールに限った話ではないが、コンクールで特に顕著に思える。

そんな自分だが、演奏を聴きながらボロボロ号泣した演奏が2つある。2017東京全国のCANTUS ANIMAEの「交聲詩 海」と、2019年2月のCoro Ponteの演奏会の「夢の意味」だ。うるっと来た演奏なら、柏葉会の絶え間なく流れていくとかやえ山の札幌全国のFriedeとか他にもたくさんあるが、涙が止まらなかったのは今のところこの2つだ。これらの演奏を聴いた時、本当に感動する音楽は、感想を言葉にすることも出来ずにただただ涙を流すしか出来なくなってしまうことを思い知った。

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自分の中で、いい演奏かどうか、明確に基準があって。いい演奏は、「来る」ものがある。「来る」のが強いと、涙になって出てくる。ただその1点が、あまりにも違って、あまりにも大きい。自分はこの「来る」音を、「魂を削る音」とか呼んでる。かっこいいから、ただそれだけだけど。噂によると存在する「意思が籠った音」とかかもしれない。血が通ってる、なんて表現も聞いたことがある(同じことを指すのか分からないが)。

「来る」演奏とそうでない演奏で、何が違うのかということについては、自分でも分かってなかった。座席の違いで音響が違うだけなんじゃ?とも思ったことがある。この説は同じ席で聴き続けた演奏会でも全く違うように聴こえた体験が何回かあるため棄却されたが。

ただ、最近ある仮説が有力になっている。それは、「団内で抑圧があるほど、来ない」というものだ。

これは部活だと想像しやすいかもしれない。自分も半年間だけだが合唱部にいたのでそこでの経験や、他の経験者の話からの推測だが、部活での練習は「暗くならないで」「ちゃんと届かせて」「タイミング合わせて」というように、指導者など前に立つ立場の人からの命令の形になることが多いように思う。出来なかったらもう1回。自然とそれらができるように、誰はどこで吸う、子音はこのタイミングで、というような決まり事も作られる。こういったことは、部活以外でも多くの団体で当たり前に取り入れられていることだと思う。

このような練習をしていくと本番はどうなるだろうか。おそらく、「練習通りのことを再現する」「間違えないようにする」という思考回路になるのではないだろうか。これはまさに、あらかじめ決められたレールの上以外を通ってはいけないという「抑圧」に他ならない。

対して、「来る」演奏はどうだろうか。そういった団体を見ていて思うのは、音程やリズムといった楽譜の再現における精度はむしろ高くないかもしれないという事だ。多くは、「ルールの遵守」ではなく「表現」をしているように思う。曲の世界に入り込んでいるように思う。

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「音楽は、ショーケースに入った宝物のようなものだ」という言葉がある。所属していた団体で先輩が言っていた言葉で、出典など細かいことは分からないが、この言葉はとても的を得ていると思う。

先程「来る」演奏は抑圧されず表現をしている、というようなことを書いたが、かといって気持ちを込めればいいというものでもない。より表現するために、より綺麗な音・ハモる音を出すために、発声練習のような基礎トレーニングは必要だと思う。どんなに心の中の宝物が美しくても、ショーケースが濁っていたら何も見えない。ただ、ショーケースを磨くことに一心になっても、中の宝物が無かったら、ショーケースの透明度に感心することしか出来ない。感動にはどちらも必要なのだ。

これは、観客のニーズを満たすこととは少し違う。観客が見たい宝物を用意するのではなく、ぼくがかんがえたさいきょうのたからものを用意して、それを曇りなく見せることが感動への道のりであるように思う。宝物自体が好みでないことはもちろんある。ただ、ショーケースの中身が見えないと、そもそも好みかどうかも分からないのだ。

自分は、アマチュアなら、究極的には歌い手が自分で楽しければそれはそれでいいと思う。音楽で稼いでいるわけでないなら、困ることもない。もちろん、自分が感動すればいいという自由を行使した結果、内外問わず演奏に否定的な意見が出たりその後の観客が減ったりすることを受け入れる責任は生じるが。

しかし、観客が感動しない演奏より、観客も感動できる演奏の方が、歌い手の感動も大きいように思う。これは、承認欲求であったり、共感であったりも関係していそうだが。ライブ感、なんて要素もあるかもしれない。観客からしても、感動できる方が嬉しいし、また演奏を聴きたいと思うようになる。つまり、観客も感動できる演奏は、Win-Winなのだ。

Win-Winだから、というわけではないが、自分は、歌い手も観客も感動できるような演奏をしたい。世の中には自分がよければそれでいいと考える人もたくさんいるが、自分だけが満足するのではなく、より美しい宝物もより透明なケースも求めたい。全ての抑圧から解放されて、世界に入りこみたい。自分も他人も巻き込んで、演奏中全ての音で魂を削り合うような、そんな音楽をしていきたい。

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自分が音楽の勉強や組織論について勉強したりするのも、全部こんな音楽がしたいから。

共感してくれる人がいたなら、特にこれといった肩書きもない僕だけど、ぜひ一緒に音楽をしたいな。達成するために、出来ることはなんでもやりたい。気をつけないと自己犠牲しがちなので、気をつけるけど。

以上、長々と文章でした。




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