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1720文字、人生の意味はともかくとして、対人生にはどのような枠組みを用いるべきかを、主流哲学の刷新点にも触れつつ

2023-11-006

人生の意味については、宗教に対して閉じない立場(特に、理想を割り引く現実の肥大化に相当する実存の下での、したがって、実現可能な距離縮小を放棄した上で、
信仰対象との対峙が修正対象でない、という意味における信仰形骸化は批判するとしても、
同種の他との差異要素捨象の産物でしかない科学による宗教に対する、個別性が根拠になる局面への領域侵犯を意味する批判は不当合理として認めない立場)を採る場合、

宗教的に説明される問題の可能性があるので、宗教的説明を検証できるだけの宗教的事実を得られない一般の人には自力では取り組めない問題、
そこの検証を厳格に展開してくれてる人に頼らざるを得ない問題との扱いにならざるを得ないのでないかと思います。


この事情を踏まえつつも、上の意味での一般の人にも可能な対人生をそれ以上遡れない、したがって、最も抽象度が高い、最も被限定がないと言える二つの原理、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関(肯定も否定も保留もこれに頼ってる第一原理)、
および、有限の与件性(AであるというだけでA以外との間に生じざるを得ない内外境界)、これらから構成するとして、

現象を内外性質(例えば、行動原理と状況把握)の統合体とし、両性質を仮説として見た時の、その時点での仮説の確からしさ上限からの乖離を修正余地とした上で、
修正余地の有無をもって受容に値しないものとして扱うか、値するものとして扱うかを決める枠組み、これに人生概念も落とし込みましょう。


この場合、生は主体の外在性質によって具体化(死込み)されるものであり、
内在性質の段階でも、単に受容に値する状態にあるか否かの問題として捉え直される事になりますし、
生を直線と見立てた時の直線を構成する点は個々の問題解決(例えば、呼吸)ですから、上の枠組みでの対内在としては疑似問題の発生余地潰し、

例えば、次元設定自在性や固有の性別システムといった人間形式に人間自身が振り回されてる事態の抑制、
あるいは、自我と文化を同種の他との共通要素捨象に十分さらす処理(それぞれを問題解決スタイルの内在系外在系として上の枠組みに落とし込む処理)、これらを疑います。

また、上の枠組みに落とし込んだ結果とは言えない内容の自由概念や平等概念への、自身の立脚拒否を対内在とした時の、
それらに立脚してる秩序への修正の、上の枠組みに適う実存(代替不可能な内外事情にしか応じない実存)の下での働きかけ(受ける影響の最小化の試み)は対外在として、対内在と対等な地位にあると考えます。



ところで、問われてる差異が取り出せるように小学生でも理科の実験をセットアップする事は可能なわけで、
制度にせよ組織にせよ同じ要領で構築可能でしょうが、過去の常識が現場を阻害してる的事態も珍しくない以上、場と形式との整合の観点からの評価が常に機能してるとは言えない事が分かります。

文系空間に至っては経年による齟齬発生どころか、個別性が根拠になる局面にもかかわらず、個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらす要求が不在である、という場との齟齬がデフォルトであって、
この外在性質の問題は、教育を通し、対内実の帰属修正具合という観点を欠いた対象理解の標準化、
という理解力に対する誤解問題に、つまりは、内在性質の問題に振り替えられてさえいます。


実際、表層次元の整合へと矮小化された論理像を踏まえた明晰さ信奉、場にその性質が疑似化してるしてないによらず合わさせる相対主義へと矮小化された自由像を踏まえた曖昧さ信奉、
これら、硬軟程度のような局面次第でしかないものを局面無視で規定する(この時点で、上のデフォルトから解放されている事を期待できない)絶対主義が、

文系権威によって牽引されてきた(主流哲学の性格ですらある)という事実は、
外在性質の内在性質への反映介した有り様保障(秩序の歪みや、そこから受ける影響を最小化する対外在の不在への指摘を突っぱねさえする)という内外連関として解せるわけで、

哲学のレベル、したがって、パラダイムのレベルから我々は、自分の人生を受容に値しないものにさせられてきたと認め、先の対人生でもって修正を図りましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。