私がテセウスの船を見て思ったこと

真犯人さがしで盛り上がっています。それはそれでいいと思います。私が考えたり、調べたりしたことをちょっと書かせてください。


原作とドラマとの比較は、ちょこちょこネットで調べると出てきますが、もともとのギリシャ神話や悲劇の方までさかのぼるものは、なかなか見つかりませんでした。テセウスっていうのは、古代ギリシャのアテナイ王で、建国の父と言われているそうです。(もちろん神話の話ですが。)

このあとも1つの説ですが、セテウスの父は、海の神、ポセイドンで、息子は、ウルトラマンの怪獣の名前で有名なヒュッポリトスという名前です。テセウスは、戦いの神の側面があるそうで勝ち気ですが、慈悲深い側面もあるそうです。これをテレビドラマのセテウスの船に当てはめると、文吾かもしれません。でもギリシャ悲劇では、おじいちゃんのポセイドンと父テセウスでヒュッポリトスを殺すひどい物語になっています。私の見立てではヒュッポリトスが心くんだと思っています。この物語から出発するとしたらやり返したいと思うのが普通だと思います。ただ、ドラマでは、やり返していいのかが問われているんだと思います。

ギリシャ神話の話に戻すと神様は生き返ったりできる場合があるのでやり返したりできるかもしれません。でもこれは永遠の戦いになってしまいます。でも、戦争で実際に殺し合うのは下々の人間たちだと思いませんか?それこそ大量死だと思います。これが30年前の悲劇だと思います。哲学得意な方とかいろいろいると思いますが、最近ちょこっとネットでニーチェとかほんの少しかじり読んだのですが、こういうのを、こういうのも悲劇の誕生と言うのだと思います。誕生といったらおめでたいことと思われがちですが、悲劇は誕生しない方がいいに決まっています。ただなかったことには、できないないはずです。だから、大量死が起きる前にどうにかこうにかするのです、その物語がテレビドラマの基本的な物語だと思います。ニーチェも同じようなことを言っていて、権力者側とそうじゃ無い側、神話だと父(ポセイドン、テセウス)と子(ヒュッポリトス)での対立構造があってどっちが善、悪として永遠に戦いあってしまうと書いてありました。だったとしたら、善悪とかいちいち区別せずに生きるのがいいのではないかと、言っているのだと思います。これをニーチェの哲学用語で善悪の彼岸というそうです。英語だとbeyond good and evilというそうです。私はよい、わるいのむこう側とか、さほどよいわるいとか意識せずに生きると意訳しています。ニーチェをあれこれ読破した人間ではないので、私論も混ざっていると思います。ただこれはマズイぞってことには無関心なわけではありません。世の中にある外国人差別とか、民族差別とか、障害者差別等々、。許せないことは許せないと言ってもいいと思います。ただ安易に誰を罰するとか、逮捕して終わりという話ではないということだと思います。テセウスの船のドラマはそういうことが描かれると思われます。

哲学やギリシャ文化、文章構成力等の未熟な面があるかもしれません。テセウスやヒュッポリトスの物語は、基本的にwikipedia情報です。本当だったら、出典や引用の情報を書くべきですが、一度アップさせてください。ヒュッポリトスは、神話の人物ですが、人間よりの神話の人物のようです。復活の物語もあるようで、そこでは、セーラームーンに出てきたアルテミスとかも出てきます。復活の物語では、やり返す物語は出てきません。引用、出典をつけたり加筆修正すべき点があれば、書こうと思います。読んで下さった方すみません。はじめての書き込みで至らない点多々あるかと思いますが、いろんな方のコメント頂きたいです。





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