美術館の夏の陽が好きなんだ
今の住処に引っ越してきて、嬉しかったことのひとつ。小さな美術館が、家から歩いてすぐのところにあることだ。
しかも、かねがね好きだったアーティストの方の作品を専門にした美術館だ。あの方が描き出すエネルギーのかたまりが、徒歩5分の場所、コンビニよりもスーパーよりも近いところにあるなんて、信じられない。
引っ越しが落ち着いたら、絶対行こう。
しかし春、新居に荷物を運び入れて荷解きをはじめるやいなや、新型のウイルスが日本中で猛威をふるった影響で、新居の近くのあの美術館は長らく休館となってしまった。
そしてようやくあの美術館に行けたのが、7月の終わりの今日。
通りがかるたびに「うつくしいな、美術館だなあ」と思う、池の水のような青みがかったガラス張りのエントランスを、ようやくくぐることができた。
今年の梅雨は長雨で、久々の夏らしいぱっと明るい晴れの日だった。ベランダへ続く掃き出し窓から見えた空の色の青さの具合に、「今日は美術館に行く日だ」と、なんとなく私は確信した。
展覧会をひととおり見終え、建物の最上階に設けられた休憩スペースで、壁一面に敷き詰められた大きな窓辺から、美術館の外を眺める。夏の日は、ただただあっけらかんと明るい。
ここで私は、過去に訪れたいろんな美術館のことを思い出していた。いろんな美術館の、こうやって窓辺から降り注ぐ夏の陽のことを、思い出していた。
それは品川の原美術館に行ったときのことかもしれないし、京都の国立近代博物館であったかもしれないし、奈良市の写真美術館の記憶にも重なるし、鎌倉の神奈川県立美術館の蓮の池のことをも呼び起こす。兵庫県立美術館のコンクリートの静かな合間に注いでいた陽射しのことも、きっと含むだろう。もちろん、ここでぱっと名前が思い出せない館のことも。
私は、美術館から見る夏の日差しが好きなのだ。
美術館へ行くと、自分のものの見え方がそのひとときだけ、変わる。
作品たちが、作品たちを静かに待ち受けるために造られた物いわぬ空間たちが、私の心身の、ものの感じ方に関するところを静かにノックしてくる。言葉に、常識に、日常に囚われないで、世界をみろと。
日頃の自分の五感を覆っている、ソフトで曇ったガラスの覆いが、美術館という空間を歩み進めるたびに、少しずつ拭われるような気分になる。
なにか大切なものが、ここにいるあいだは、いつもより少しだけよく見えるような気がする。
そんないつもと違う感性のモードで、美術館越しに夏の晴れ空を浴びるのが、私は特別に好きなのだ。
美術館めぐりは20代の頃から趣味のひとつにしていたけれど、美術館越しの夏に自分がとりわけ価値を感じていることは、今日唐突に発見した。
だって、家から徒歩5分の美術館に来ただけなのに、美術館の窓越しに広がる家から徒歩5分の景色が、いつもの近所のそれとは、まったくの別物になっていたからだ。
日頃なら、歩いて登る気がてんで起こらない坂の上があるあたりは、夏を存分に飲み干そうとする深緑の小径にみえる。
いつもは、ただ通り過ぎるだけのなにかの記念館は、まるで旅先で出会った別の国の建物のようにみえる。
そばにあるレジャー施設のこじんまりとした古そうな遊具や、夫の車の助手席でただ走り去るだけの幹線道路すら、美術館から見下ろすと、そこはなにかの小さな物語の、一瞬の舞台のようにすら思えてくる。
私にとっては心地よくも快くもない、ただ仕方なしに生きているだけの世界。うまくいかないばかりの世界と、折り合いをつけてやっていくことばかりに、私は日々疲弊している。
そんなとき、美術館の感性のモードで、改めて自分の外にある世界と接触すると、世界や人間は、日頃思っているよりも少し美しい。日頃思っているよりも少し美しい世界が見れた時、私はほんの少し、救われたような思いになる。
その救われたような気持ちの存在を照らすのが、私にとっては夏の日差しだ。
美術館から見る、夏の日差し。
2018年の夏の京都国立近代美術館。
次の日に奈良市写真美術館に行ったときも、暑かった。
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