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【読書感想文】アーバンギャルだった私はまだ死んでいない『水玉自伝~アーバンギャルド・クロニクル~』

はじめに

私は「アーバンギャル」だった。
堂々とそう自称していられる時代は、自分の中で一区切りがついてしまったみたいだ。

音楽を聴いて気持ちが高ぶるということから、久しく遠ざかっている。
芸術へのすがるような思いも関心も、いったいどこに去ってしまったのか。
本の中に作られた言葉の庭を味わうことよりも、本の中に整頓された実用的な事柄ばかり求めるようになってしまった。

目の前の生活で、それどころではなくなっているうちに、
私の精神の感度は、そこそこ生きていくに困らない程度の最低限のレベルに出力を下げたまま、上げ方がわからなくなってしまったみたいだ。

こんな私に、あるバンドのファンという肩書きをきちんと身につけて、ライブハウスに、CDショップに、イヤホン越しに、アーバンギャルドを追う気力は、もう残っていない。

まるで、1つの青春が終わってしまったみたいに
ーあなたは最初から青春になんて憧れていなかった。

それなのに、予約したこの本が届かなかった時は、やきもきした
ー10年近くファンだったのだから、グッズを待ちかねるという心の動きが、もはや習慣で自動再生されるみたいなものになっているんじゃないのか?

やっぱり、ずっとあなたたちを見ていたかったということなのか
ーあなたは、最初からあなたのことしか見ていなかったというのに。

暫くしてようやく届いた1冊の赤い水玉の装丁本を開くと、そこにあったのは
「アーバンギャルド」という集団について、3人のメンバーがそれぞれ語る10年の軌跡と

私だった。

「アーバンギャルド」というバンドの過去を、
「アーバンギャルド」というバンドを愛していた私のことを、私は確かにまだ覚えている。
ページをめくっていくうちに蘇る懐かしさと期待は、まだ充分に温かい。

懐かしい、なんて過去のものにしたくない。
私の今に、ちゃんと息をしている。

⒈「そういえば、こんなバンドがどうして好きなんだろう」

「何でこんなバンド好きなんだろう」
そんなことを思いながら、なんだかんだで毎回ライブには行っていた。
10年もファンをやっていると、アーバンギャルドの存在が当たり前になりすぎてしまう。新譜が出たら取り寄せるのが普通、取り寄せないという選択が頭に浮かばない。ライブツアーに行くことは、もはや年数回の帰省のような感覚だ。

もちろん、アーバンギャルドがいちファンの心にここまでの存在感を築き上げてきたのは、メンバーやスタッフのみなさまが、10年間本当に頑張ってくださったおかげでしかない。『水玉自伝~アーバンギャルド・クロニクル~』(以下、『水玉自伝』)には、その10年の満身創痍の頑張りが、痛々しいぐらいに綴られている。

とはいえ、このバンドを好きだという感情が、自分の中であまりにも当然のことすぎて、逆に、なぜ好きかということがすっかりわからなくなってしまっていた。
その答えを教えてくれたのが、この『水玉自伝』だった。

「アーバンギャルドが好き」ということは、周囲になかなか公言しにくかった。友人知人に、特に言う機会がなかったといえばそれまでだが、それ以上に、このバンドが好きな自分自身に自信が持てなかった。

アーバンギャルドは、いわゆる生きづらそうな人が好みそうなモチーフや言葉を巧みに操り、こちらの心を覗いてくる。
うまく付き合いをしなければいけない集団から、なぜか浮いてしまう人。
恋愛にしろ容姿にしろ学歴や仕事にしろ、自己のなんらかの分野で、強烈に劣等感が強い人。
ただ生きているだけで傷つくことが多すぎて、こんなロクでもない世の中とも自分とも、とっとと死んでオサラバしてしまいたい人。 
そんな人間の心の琴線に、引っかかるものを歌っているのがアーバンギャルドだ。

つまり、アーバンギャルドが好きな私は、集団から浮いていて、劣等感まみれで、早く死にたくてたまらない、どうしようもない人間だということ。
そんな私のどこに自信が持てようか。

さて、世の生きづらさを抱えた人々の中には、どうしようもない生きづらさが募るあまり、言動や振る舞いが、一定方向病的になるタイプの人がいる。
彼らはこの社会で「メンヘラ」と呼ばれていて、アーバンギャルドはこのメンヘラを題材にした楽曲も多い。メンヘラをターゲットに、病的な世界観を共有して楽しむバンドとも思われがちだ。

だが、断言する。
アーバンギャルドは、メンヘラのバンドではない。

『水玉自伝』を読めば、確信できる。
アーバンギャルドは、メンヘラのバンドではない。

彼らはただ、社会を、人間を、真っ当に描いているまでのことだ。
ただ、表現する方法がやや捻くれていて、好き嫌いが分かれる味付けではあるが。
心が健やかか病んでいるかどうかを問わず、いまの日本社会にズルズル生き至ってしまった人間のための音楽だ。

生きづらそうな人の心を惹きつけやすいモチーフに溢れた、生きづらそうな人の陥っている世界を、一度解体する。解体後、言葉やサウンドやヴィジュアルイメージを駆使し、ひとつの作品として仕立て直す。
そして、作品に接した者に問う。
お前はこれを聴いて、何か感じるか?
ちゃんと感じることができるか?
自分の中にある毒や歪みを忘れていないか?
生きてることも、世の中もとちゃんとクソだと思える人間らしい感受性が、ちゃんとあるか?
と。

そうだ、そういうバンドだった。
だから好きなんだよ!
『水玉自伝』は、アーバンギャルドが作品を通じて私たちに試みていたことの正体を分からせてくれた。

これまで私は、アーバンギャルドの作品によって、ちょっぴり社会不適合で、だいぶ面倒くさくて、疎んでも厭っても死に切れない自分の姿を、何度も何度も見せられ続けてきた。
アーバンギャルドが響いてしまうこんな私、嫌いだった。
でも、嫌いなのに、聴くことをやめられない。
だから、自分がアーバンギャルドを好きであることも素直に直視できなくて、「なんでこんなバンド好きなんだろう」と、理由の方をつい抑圧してしまっていたのかもしれない。

⒉「そもそも、こんな男のどこが好きだったんだろう」

アーバンギャルドのファンたちは、ファンの中でも松永天馬を特に贔屓にしている者のことを「天馬厨」と呼んでいる。私もその一人だ。
ツアーグッズにメンバー別のグッズがあれば、私が買うのは基本的に天馬グッズ。松永天馬のソロツアーを観るためだけに、神戸から東京や沖縄まで遠征したこともある。『水玉自伝』にも、もちろん松永さんからサインを頂いた。

さて、10年天馬厨を自称し、応援しています!なんて言いながら、私の個人的な恨みつらみを書いて詰めたうっとおしい手紙をファンレターと称してたまに送りつけていたような困ったファンの私が、今更こんなことを申し上げるのは厚かましく、忍びないのであるが、

『水玉自伝』を読んだら、松永天馬のことを嫌いになりそうだった。
こんな男のことを半ば妄信的に支持していた、自分の神経を疑いそうになった。

ところで私は、マッチョやスポーツマンのような、心身ともに溌剌としたエネルギーが充満しているタイプの人間が好きではない。
では、松永天馬はその逆の、陰鬱な人間……とも言い切れない。この人の創作行為に対する熱量は、マッチョの筋肉量、スポーツマンの運動量並みのボリュームがある。創っていないと生きていられない、止まっていられないと言わんばかりに、創作へのエネルギーがぐるぐると渦を巻いて止むことがないのだろうと思う。ただ、エネルギーの色がじっとり暗くて、発散する手段や方向が内向きだが。

この松永天馬の途方もないエネルギーが、アーバンギャルドを動かしてきたことは疑いようがない。『水玉自伝』を読むと、本当に感じる。
そしてこの松永天馬のエネルギーの強さが、時に他のメンバーを戸惑わせてきたことも、『水玉自伝』ではうかがい知ることができる。
松永天馬だけでは、絶対にアーバンギャルドは成立しない。ファンがアーバンギャルドを長く応援し続けていられたのは、浜崎容子やおおくぼけいが、彼のことを冷静に見つめながら、各々の強い意思を持った上で、一緒に活動を続けられる人間であったおかげだと思う。
だから、『水玉自伝』を読みながら他のメンバーのことを思うと、松永天馬のことが手放しで好きだなんて言えなくなってしまった。
私は『水玉自伝』の浜崎容子とおおくぼけいのおかげで、我に帰った。そして、天馬厨だった自分を悔いた。
『水玉自伝』において、浜崎容子は人を正しい道に導く女神か天使、おおくぼけいは賢者だ。
まあ、メンバーの誰がどうとかではなく、アーバンギャルドは、様々な人間の意思と出来事と運命とが、絶妙に重なった奇跡のバランスの上に在る集団だとも痛感させられるのが『水玉自伝』という本なのだが。

しかしながら、なんだかんだで私は、あの松永天馬の創作へのエネルギーの強さに惹かれてしまったのだ。
彼の、表現することに対する強いバイタリティに、心を動かされ続けているのだ。
10年の間、ずっと。
ここまでの熱を持ってアーバンギャルドを動かす彼が、次にどんなものを作ってくれるのか、何を仕掛けてくれるのか、追いかけたくて仕方がなかった。

さて、『水玉自伝』は、松永天馬という男の表現欲求の強さがよりわかる本ではないかと思う。
この本を読んで推するに、彼の暗く重い表現欲求を支えているのはおそらく、彼の文化的な育ちの良さによる揺るがない自信ではないだろうか。

文化の先端である東京生まれで、子供の頃から様々な文化的な作品に触れる機会に恵まれていた松永天馬は、いわば「カルチャーのお坊ちゃま」だと私は思う。
貧しさへのコンプレックスを抱えた人間でなければわかにくい感覚かもしれないが、貧しい人間から見ると、恵まれている人というのは、妙に揺るぎない。自分という存在を育んできた土台がしっかりしていると、その土台の上に育ってきた自分に対する信頼もしっかりしてくるような印象がある。

関西出身の浜崎容子も、松永天馬との間に感じた文化的格差について『水玉自伝』の中で触れている。
松永天馬は、「カルチャーのお坊ちゃま」であるゆえに、自分が創り表現する人間であることに、疑いがない。もしあったとしても、感じさせる隙がない。だから強い。

だからこそ、あー、この人のお坊ちゃま感による強さも苦手かもしれない、と読みながら思った。
でも、彼の書く詩や打ち出すコンセプトは本当に好きだ。
それに、彼の表現欲求は確かに内向きで重く暗いけれど、彼自身の内面と彼が作る作品との間には、シビアな距離が置かれている。だから、作品として安心して受け取ることができる。作り手としてのそのスタンスは頼もしい。

彼自身の人柄、というかそんなものはもうどうでも良い。
ただ、松永天馬という男が、何かを作り続けようとする熱の強さは、きっとまた私をアーバンギャルドの世界へと呼び戻すだろう。

⒊「それでも、聴き続けるしかなくて」

1.でも触れたが、メンバーは、アーバンギャルドで病んだ音楽を作ろうなんてことは、つゆも思っていない。自分たちが描きたいものを、いかに良いやり方で表現し続けられるかを、決死に闘い続けている。
『水玉自伝』は、この闘いの記録でもある。

『水玉自伝』では、メンバー1人1人の生い立ちから、デビューまでの経過、デビュー後から現在 に至るまでのことが時系列で語られている。
インディーズ時代からのアーバンギャルドに起きた出来事を知っているファンの私は、安心と痛みに交互に襲われながら読んだ。

「ああ、あの時感じた違和感は、やっぱりそうだったんだ」という、安堵。
「あれに至るまでに、どれだけの葛藤や苦悩があったのだろうか」という、ショック。
読み進めるこちらの胸に、この2つの感情が、ここのけそこのけでひしめき合う。

けれども、本を読み終えてこうやって感想文を書いている今、「アーバンギャルド・クロニクル」が私の心中に呼び起こした安心と痛みは、ある確信として収束した。

信頼だ。

あの時のことも、あんな時のことも、みんないい加減な決断の結果ではなかった。
彼らなりの信念があり、意図があってのこと。
変えられないどうしようもない状況に、抗ったり、克服を試みたりした末のこと。

すべてが、アーバンギャルドとその作品を、殺すためではなく、生かすためのものだった。
信じてきてよかったと思えた。

アーバンギャルドがこの先どうなるのか分からない。変わり続ける彼らから、離れてしまった他のファンもいる。
でも、アーバンギャルドは、きっとまた良い作品を私たちに届けてくれるはずだ。私はその思いでファンでいようとし続けてきた。
生活に追われ、私個人の人生の事情の変化もあり、若いときほど熱心な応援の仕方はできなくなってしまった。

それでも、アーバンギャルドを好きであり続けて、正解だった。
そう思えた。

おわりに

相変わらずアーバンギャルドの音楽が響いてしまうような自分のことは嫌いだ。フロントマンの松永天馬もいけすかない。好きだけど。
でも、アーバンギャルドのファンでいたことは、間違っていなかった。『水玉自伝』はそう教えてくれた。

ところで、ところで、ところで。
私は「アーバンギャルド」が良いか悪いかではなく、「私がアーバンギャルドを好きでいること」が良いか悪いかを、本書を読みながら確かめているようだ。
本当に、自分のことしか見ていない、どうしようもない人間だ。

でも、アーバンギャルドってきっとそんなバンドなのだと思う。
アーバンギャルドは、作り手側から放たれるストレートなメッセージに、聴き手が感銘を受けてどうこうするような音楽ではない。アーバンギャルドが作っているのは、もともと自意識過剰な聴き手が、自分の中の薄暗くみっともない部分を炙り出されて1人うずくまるための音楽だ。

アーバンギャルドを聴いていると、「世渡りがつらいなあ」「春はなんとなく切ないなあ」「そういえばあんな美しい情景があったなあ」「絵が描きたいなあ」なんて、とりとめのないことが、自分の中にプカプカと湧き出てくる。
プカプカと湧き出たものに、「そうねえ」とぼんやりと向き合いながら、私はいびつで不器用ながらなんとか生きている。

アーバンギャルドは、アーバンギャルドを見ているつもりで、私自身のことを見つめてしまう音楽。
私にとっては、ずっとそうだった。

だから、『水玉自伝』の中で松永天馬がこう言っていたことにも、素直に頷ける。

「ライヴハウスから、あるいはCDの中から、音楽の中から、そのリスナーの人生に向かって、物語が拡張して行くダイナミズムを描きたいと思っていて(p.117)」


そういえば、松永天馬は、2019年にリリースした最新アルバム「少女フィクション」についてこう評している。

「それが、ここでは完全に自分たちの過去を「青春化」したというか(p.129)」

青春、なんて大げさで青臭い表現であるが、アーバンギャルドの10年分は、やはりそうなんだと思う。青春を、若い者が未来に向かって走り続けるワンシーンと定義するならば、アーバンギャルドは1つのシーズンを駆け抜けてきた後にいるのだ。
そしてファンであった私の、アーバンギャルドを愛好しながら20代を駆け抜けてきた日々も、いまや振り返って懐かしい過去のものだ。

でも、ただの過去に閉じ込められた美しい何かでは、終わらない。
アーバンギャルドはまだまだ、生きている。
私もまだ、これから生きていく。
生きなければならないしがらみが強くなりすぎてしまった。

先ほど触れた松永天馬の「少女フィクション」評は、さらにこう続く。

「聴く側と聴かれる側の「色々あったけど」やっぱり幸せな関係。(p.129)」

「色々あったけど」なんて、言ってくれるなと思う。
離れたりくっついたり、傷つけたり傷つけられたりを繰り返しながら愛憎こもごも、だけどなぜか離れられない腐れ縁のカップルの発言のようだ。でも、「色々あったけど、やっぱり幸せ」なんて言うカップルって、だいたいこう言うことを言った矢先にトラブル起こしがちじゃないですか。気のせいですかね?

まあ、そんな付き合いの濃厚なカップルのような関係が築けているかどうかはともかく、私のアーバンギャルドに対するファン感情は、もはや腐れ縁だ。意地だ。
10年間、なんだかんだでここまで好きでい続けて、今更別れるなんて悔しい。
『水玉自伝』を読んだおかげで、ますます意地を張りたくなってしまったではないか。

「アーバンギャルド」というバンドの過去を、
「アーバンギャルド」というバンドを愛していた私のことを、私は確かにまだ覚えていた。
ページをめくっていくうちに蘇る懐かしさと期待は、まだ充分に温かい。

懐かしい、なんて過去のものにしたくない。
私の今に、ちゃんと息をしている。

そしてこれからも。

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