インテリジェンス・ケア(後)

 若狭木が大佐賀たちの元に来てから早くも一ヶ月が経った。

 大佐賀と亜遊はというと、真面目に海洋バランスリセット法を続けていた。2人はよく若狭木と話をしていた。大佐賀は海洋バランスリセット法の理論をより確かなものにするために若狭木と積極的に議論を交わし、美しさにあまり関心がなかった亜遊はただ単に好奇心に任せて色々な質問をしていた。

 若狭木の海洋バランスリセット法のステップ1は従来のケアとは全くアプローチが異なるものだったが、知識が豊富な大佐賀がそれを認めた上で議論をしているところを見て、他の人魚たちも自分達で考えてアレンジを加えながら海洋バランスリセット法を実践していた。

 ただ、1ヶ月経っても効果が何も現れないものの中には赤い海へと姿を消していく魚もいて、依然として赤い海は拡大を続けている。期待も高まる中で、残された時間が長くない魚たちは焦りも隠せなかった。

 しかし、2か月が経ったころ、真面目に議論を交わし海洋バランスリセット法のステップ1を終えた人魚たちは自分たちの外見の変化に驚きを禁じ得なかった。

「ステップ1でこの変化か、これはたまげたなあ……」

 大佐賀も思わずそう呟いた。

 亜遊も「これが綺麗になるってことかぁ」と鏡を見ては身体をくるくるさせていた。

 さらに2か月が経ち、ステップ2の半ばに差し掛かると、どこから聞きつけたのか、赤い海から海洋バランスリセット法を試しに青い海に戻ってくる人魚も現れた。突然戻ってきた赤い海の人魚を心地よく思わない者もいたが、若狭木は、

「私は寛容よ。考えない馬鹿は救いようがないけど、考える馬鹿には手を差し伸べるわ」

 と、微笑んだ。

 人が増えると議論も深まり、議論が深まると、理論はより強固なものとなり、理論が強固なものとなると、その効果もより絶大なものとなった。

 結果として、ステップ2を終えた頃には、すでに人魚たちは若狭木と出会うまでの自分の姿を思い出せないくらいに見違えるようになっていた。

 そして、ステップ3に差し掛かろうとした時、ついに海を揺るがす革命的出来事が起きた。

 赤い海の拡大に最も手を貸した真黒が、若狭木の元に来て頭を下げたのだった。

「……考え直したのね?」

 若狭木は静かに問うた。

「はい…私、今までなんて愚かなことを……!」

 真黒は深々と頭を下げた。

「私、もっと美しくなりたいし、もっと長生きしたいです!」

「考える人は、大歓迎よ」

 若狭木は、そう言ってまた微笑んだ。


 ステップ3は厳密にはさらに細かく2つのステップがあった。その1つ目のステップを終えた頃には真黒もすでに海洋バランスリセット法の虜になっており、また、あらゆる場所から若狭木の噂を聞きつけて、大量の人魚たちが若狭木の元に押し寄せた。

 赤い海も徐々に縮小し、人魚たちは大喜びだった。

「一時期はどうなることかと思ったが、まさかまたこんなに一面ほとんど青く澄み切った海を見れる日が来るとは、感慨深いねぇ」

 大佐賀は群れから少し離れたところで亜遊と話をしていた。

「ですよね~。まだステップ3ですけど、私、もう正直十分満足しちゃってるんです。私は他の人と比べたら記憶がなくて馬鹿ですけど、なんだかそういうのどうでもよくなりました。自分のことが好きになって生きるのが楽しくて今とても幸せなんです」

 亜遊もそう言ってニッコリと笑った。

「勿体ないやつだ。ここまで来たら私は誰よりも美しくなりたいがな」

 大佐賀は鼻を鳴らした。

 大佐賀の言う通り、ステップ3まで来たからこそ、ステップ3で満足している人魚は皆無に等しかった。全員がそれなりに美しくなった今、人魚たちは相対的に頭一つ抜きんでることを目指していた。

「それにしても初めは胡散臭いやつだと思っていたが…あいつの理論は完璧だよ。私はあいつには適わない。あいつの意見さえ信じておけば、本当に海は完全に青さを取り戻すだろうよ」

 最近は海洋バランスリセット法だけではなく、それに派生した若狭木の様々なケアが流行り始めていた。

 特に外見に極度なコンプレックスを抱えていた人魚たちは若狭木を神のように崇めていた。どこに行っても、誰と話を交わしても、もう若狭木の名前を聞かない日はない。

 海から赤が完全に消える瞬間も、あと少しだった。

 いよいよステップ3の後半が終わった。一時は海全体の3分の2まで浸食していた赤い海も今では全体の5分の1ほどまで縮小した。これで残すはステップ4だけだったが、人魚たちは自分の美貌を眺めて悦に入る一方で、至上の美しさを手に入れるためにステップ4の開始を渇望していた。

――しかし

 皆が未来に期待を膨らませる中、若狭木は1人、いつもの笑みを浮かべていなかった。


「亜遊。じゃあ今日から3日間見張りよろしくな」

 大佐賀は亜遊に声を掛けた。

 赤い海の心配はほとんどなくなったものの、海には他にも危険が数多存在する。有事に備え、ローテーションで担当が住処から少し離れたところで異常が起こらないか見張りをするのがこの海のルールだった。

「えー、明日からステップ4が始まるっていうのに、私だけ出遅れちゃうじゃないですか」

「ぶつぶつ言うんじゃない。自分の悪運を恨みな」

「はぁい」と亜遊はしょんぼりと肩を落として、見張りのポイントまで向かった。

 1日が経ち、何も起こらず暇だなと亜遊が欠伸をしていた頃、雨が降り、海が荒れ始めた。その雨はやがて嵐になり、海流も激しくなった。

 普通の人魚であれば、これぐらいの海流に飲まれずに遊泳するのは何ともなかったが、記憶がない亜遊は荒れた海流の対処法を知らず、たちまち海流に飲まれて身体のコントロールを失って流されていった。


 意識を失っていた亜遊が目を覚ましたのはそれから2日後のことだった。亜遊は目を開くと目の前の景色に愕然とした。亜遊の視界は一面真っ赤だった。

 一体どんなに遠くまで流されてしまったのだろう…。亜遊はここがどこなのか全く分からなかったが、とにかく青い海を探した。

 しかし、泳げど泳げど視界に移る色が変わることはなかった。亜遊はそこでようやく気が付いた。

 海洋バランスリセット法のステップ3を終えた時、若狭木が笑っていなかった理由を。

「遠くにはこんなに赤い海が残っていたのに、私たちはほんとに小さな世界しか見えていなかったんですね」

 ステップ3が終わったにも関わらず、想定よりも海が改善されていなかったから若狭木は素直に喜べなかったのだ、と亜遊はそう考えた。

 ただ、それ以上の思考をしている余裕はなく、一刻も早く赤い海を出るため、亜遊は一心不乱に泳ぎ続けた。

 さらに4日が経った。亜遊はまだ赤い海から出られないでいた。亜遊は違和感に気づいていて見て見ぬふりをしていたが、それも限界だった。

 泳いできた場所をもう一度振り返る。

 それは明らかに2日前にも通った場所だった。その先の景色についても同じだった。眼前を流れていく景色はどれもこれもすでに目にしたことある景色ばかりだった。つまり、もう海を何度も周っていた。

 認めたくない事実を認めてしまった亜遊は、どっと押し寄せる不安と孤独感に押し潰されそうだった。

「若狭木さん!大佐賀さん!!岩奈さん!!!」

 大声を張り上げるが返事はない。亜遊は涙を流しながら海を駆け巡り、仲間の名前を呼び続けた。

 その時、木の枝がコツンと、亜遊に当たった。

 亜遊はちらりと木の枝を一瞥したが、すぐに前を向いた。それからすぐに違和感を覚え、もう一度木の枝を振り返った。

「…………亜遊」

 そのかすれた小さな声は間違いなく亜遊が木の枝だと思っていたものから発せられていた。そしてその声に亜遊は明らかに聞き覚えがあった。

「大……佐賀さん?」

 その木の枝は、大佐賀だった。

 亜遊はその場に膝から崩れ落ちた。そして大声で叫び、両手で視界を塞いだ。亜遊の目の前には木の枝が大量に流れていた。それを初めは嵐のせいで地上から流れてきたものだと思っていたが、違った。

 それらはすべて、かつて人魚だったものたちの成れの果てだった。

「ごめんなさい」

 突然背後から聞こえた冷たい声に、亜遊は目を見開いて振り返ると、いつの間にか若狭木が後ろに立っていた。

「あなたの仕業なんですか?」

 若狭木は何も言わなかった。

「ステップ4が失敗したんですか?ステップ4が失敗しただけでこんな…」

 亜遊は“木の枝”を指さしながら言った。「本当にこんなことになるんですか……?」

 若狭木は小さく首を振って、それから口を開いた。

「成功してしまったんです」 

 亜遊は若狭木の言っていることが理解できなかった。

「ステップ4を失敗させる計画が」

「どういう…」

「言葉のままですよ。私はステップ4を失敗させたかった」

「どうしてですか……?」

 亜遊がそう聞くと、若狭木はまっすぐに亜遊の目を見た。

「あなたたちが考えなくなったから」

 後ずさる亜遊に若狭木は身体を近づけた。

「初め、あなたたちは真剣にインテリジェンスケアを実践していた。しかし、あなたたちは次第に私を神格化するようになった。自らが考えることを放棄し、ただ手っ取り早く方法だけを求めた。可笑しいわよね、あれだけ真黒さんたちを批判していた私が、まさか真黒さんたちと同じになるなんて。私はそれが耐えられなかった」

 若狭木は続ける。

「ただ、皆さんを心のどこかでまだ信じていたんでしょうね。そこで試すことにしたんです。インテリジェンスケアを謳う私を信じる皆さんが本当にインテリジェンスなのかどうかを」

「なら、直接言えば…」

「直接言っても伝わるでしょう、一時的には。しかし、それでは続かない。ステップ3まで行い、皆さんの変化を見て気付いたんです。我々は、他人の言葉だけでは変われないと」

「だからってあそこまでする必要があったんですか?擦り傷を付ければそれで済む話じゃないんですか!」

 亜遊は必死で訴えた。けれどもそれは若狭木には響いていなかった。

「言いましたよね。『思考を止めれば死んだも同然』だと。だから、多少の犠牲は仕方ないと思っていました。皆さんがあそこまで変わったのは些か予想外で残念でしたが、後悔はしていません」

 亜遊は一ミリの申し訳なさも感じていない表情で木の枝に一瞥をやる若狭木に思わず掴みかかった。

「考えなさい、今私に怒りを向けている場合かを」

 そう言いながら、若狭木は近くに落ちていた先端の鋭利な片手に収まる小石を手に取った。亜遊はその行動を見て手を放して後ずさった。

「安心して、あなたを殺すつもりはないわ。この石は、私のため」

 妙に穏やかな口調でそう言うと、若狭木は小石を首元に突き立てた。

「私は過ちを犯した。あれだけ考えろとあなたたちに求めておきながら、私は事態がここまで最悪になることを考えていなかった。『あなたたちならきっと私の嘘に気づいてくれる』。そんな確証ない希望を胸に思考を停止してあなたたちに嘘をついた。だから、私ももう終わり」

 亜遊は身体を動かすことができず立ちつくしていた。目の前で今から若狭木さんが死ぬ。そんなことは耐えられない。若狭木さんを救いたい。でも、どうやって?きっとここで若狭木さんを救っても、私が昼寝でもしている間にきっと声も上げずに死んでしまうのだろう。

「思考しているのね、良いことよ」

 若狭木は微笑んだ。

「でも、あなたが今考えるべきはそこじゃない。状況は絶望的だわ。記憶のないあなたが、頼れる仲間を失い、身体を蝕む赤い海で一人取り残される。でもね、あなたならなんとかできるわ。だってあなたは海洋バランスリセット法を完全に達成した唯一の人魚なんだから」

 亜遊は若狭木の話に目を見開いた。

「どうして…私、ステップ4を聞いてさえいないのに」

「かつて私は『ステップ4で美しさを完全なものとする』と言ったけど、あれは嘘。本当のステップ4は『相対的思考から解放され、自分を愛せるようになる』こと。あなたはそれをとっくに達成していた」

 亜遊はそう言われて、まだ受け入れられない気持ちと、妙な納得感があった。若狭木の言うように、亜遊はとっくに他人と比べることを辞め、自分の幸せだけと向き合っていた。

「ただし」

 若狭木は言葉を続けた。

「海洋バランスリセット法はあくまで“リセット”するもの。これで終わりではなく、ここからが始まりよ。あなたの人生は、ここからとてつもなく輝く」

 これが始まり。何もかもが終わりだと思っていた亜遊にとって、それはある意味地獄のような、ある意味救いのような言葉だった。

「全てはあなた次第。考えなさい」

 そう言っていつものように微笑むと。

 若狭木は手に持った小石で首元を掻っ切って、命を絶った。

 亜遊は海底に沈んでいく若狭木を抱きかかえて涙を流しながら――

 ステップ4のその先を、考えた。


<終>

※この物語は、筆者がプロットも考えずにノリと勢いだけで書いた非インテリジェンス物語です。

 

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