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反権威の皮を被る権威主義者 #4: ネオナチ化する日本のフェミニスト集団

敢えてきつい表現を使わせてもらった。

そう感じざるを得ないツイートを見たからだ。

その無責任さ加減を一言で言えばこうだろう。

このような他力本願的、従属的なマインドこそが権威主義者の振る舞いなのだ。

そして他人の自由が許せない。

そのような昨今の傾向について、こう警告した。

「ドイツ人の商店」

いささか古い話だが2020年の12月のこと。

そして2021年9月の松戸警察署のVtuber起用動画騒動、通称"戸定梨香"問題。

ここのあたりの経緯を見て思ったのである。

しかし政治闘争という切り口で見れば

ということなのだ。

「共感されないことを自分への否定や攻撃ととらえる」という傾向の異常性。

そして共感の暴走は暴力的ですらある。

そこで「ドイツ人の商店」という実話を引用したい。

「ナチスが政権を取った年のある日、ドイツ人の経営する商店の店先に『ドイツ人の商店』という札がさりげなく張られたとき、一般人は何も感じなかった。またしばらくしたある日、ユダヤ人の店先に黄色い星のマーク(ユダヤ人であることを示す)がさり気なく張られた時も、それはそれだけのことで、それがまさか何年も先の、あのユダヤ人ガス虐殺につながるなどと考えた普通人は一人もいなかったろう。
つまり、「ナチ『革命』の金過程の意味を洞察」できる普通人はいなかったのだ。
きのうに変わらぬきょうがあり、きように変わらぬあしたがあり、家々があり、店があり、仕事があり、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も――別にドイツ一般民衆の思想や性格がナチスになったわけでは全くないのだが、気のつかない世界(=ドイツ社会)の変化に、彼らは『いわばとめどなく順応したのである』。そしてナチスが政権を獲得した1933年から7年がたって、あのアウシュヴィッツが始まったというわけだ。
ふり返って考えてみれば、『一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、“時折遺憾”の意が表明される』のみで、政治の全過程を最初からのみこんでいる人以外には、その“きわめて小さな措置”の意味はわからない。それは『ほんのちょっと』悪くなっただけだ。だから次の機会を待つということになる。そう思う自分に馴れてしまっているうちに、事態は取り返しがつかなくなってしまった」。
http://blog.livedoor.jp/kaneko_masaru/archives/1795336.html  より
朝日新聞1986年1月1日朝刊 木下順二「小さな兆候こそ」

表現規制反対派は気付いているはずである。既に動き始めていることを。

さて時間軸を2021年の秋に戻そう。

安倍元首相狙撃事件からさかのぼること10ヶ月ほど前の時点で統一教会というキーワードが出ていたのである。

これが意味するところは何であったのか。

ここで共産党の匂いをかぎ取ったので、このようなnoteを書くことになる。

そして迎えた総選挙の結果はご存じの通りだった。上述記事で

一つの見方としては、全国フェミニスト議員連盟が戦果をあげれない組織と見られないように、声を上げ続けて存在アピールとプレゼンとしての示威行為が必要。そうしないと、資金提供者(または支援者)から消される可能性がある、そういう見方もあり得る。

と指摘したが、結果的に「戦果」が得られなかった。

そしてど2022年4月の「月曜のたわわ」騒動も、騒いだ側の裏側を調べられて空砲に終わったのであった。

「水晶の夜」に備えよ!

水晶の夜とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害事件のことだ。

しかも時のナチス政権は傍観者として振舞っていた。

表現規制関連で、これと似たような出来事が起きるのだろうか?

恐らくは共産党系が暴走したときに、冒頭で指摘した無責任な女性のマジョリティがナチス政権と同じように傍観者として振舞う可能性は高い。

では、具体的にどのようなシナリオが想定されるだろうか?

それは道徳を法律に書き込もうとするときだろうと想像する。

これのモデルケースは「ちびくろサンボ」問題だ。

そして未成年者を表現することを問題視するという形で表現規制を試みるだろう。

その時は「不思議の国のアリス」のような児童書や絵本ですら絶版になる。

そして、時の政権、与党はこう言って、彼女らとそのシンパが守ろうとしたBLも含む同性愛表現も規制するだろう。

「私はたしかに、あなたがたの訴えに応じるべく尽力しました。しかし一方で、あなた方の大きな声により生活が脅かされるのではないかと不安に感じていた別の市民からの訴えにも、私は平等に声を傾け、そして真摯に応じたのです」
御田寺圭「ただしさに殺されないために」(大和書房、2022年)
第3章 自由と道徳の神話 4 自由のない国 より

勿論、そこには相互認証破壊的な動きに持ち込むためのロビー活動が必須ではあるけれども、それは表現規制反対運動の目標も戦力も戦術も反転させる必要がある、ということを意味する。

現実のLGBTQ+の人たちを巻き込んで、「私たちのような同性愛者を娯楽で描かれることは不愉快です」と言わせればいいのだから。

これは実に失礼・無礼な話だが、そこまでやるかどうかは別の話。

それにしても絵本や児童文学まで発禁になる、というのは極端なシナリオかもしれない。

しかし法律というのは、人情を酌まないものだ。

補論

2021年の総選挙にあたって炎上した「社会的合意」というもの。

 吉良氏は「矛盾はない。ジェンダー政策の部分で言っているのは、子どもに対する性暴力は絶対許さないということだ。児童ポルノも子どもへの性暴力だから許されないということだ。ただし、児童ポルノという言葉を使った表現規制ということに対しては明確に否定している。表現の自由を守り抜くのは当然だし、児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。
「自由と民主主義を何よりも大切にするのが共産主義の社会だ」日本共産党・吉良よし子常任幹部会員 各党に聞く衆院選(5)
https://times.abema.tv/articles/-/10003601 

「儲からない」からやらない、という選択肢は非商業作家にはないだろう。そして合意している側と合意しない側で社会が分断されるはずである。

勿論、表現規制問題で国論が割れるというのは大袈裟な話だし、非現実的ではある。

恐らくは別の論点・争点で上書きされてしまって、政策パッケージの一部として議論されることになるだろうが、野党や左派の現状を見ていると「勝ち目」はない。

その時に表現規制推進派がどのよう戦術で暴れてくるのか、その点は興味深い問題として残されている。

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