「傷つかない権利」の暴走
"社会的合意"が近代の法治をキャンセルする
8月の小田急線の通り魔は"フェミサイド"と騒いだ割には、10月末の京王線の通り魔で刺されて意識不明状態の70代男性には反応がない。
これは無自覚の差別意識がそうさせているのではないか?という指摘がある。
そして人権=人情となっているようだ。
https://twitter.com/search?q=from%3Aterrakei07%20%E4%BA%BA%E6%83%85&src=typed_query&f=top
こういう話が出るたびに、私は300年前の元禄赤穂事件(忠臣蔵)を引用して、日本人の犯罪に対する意識と人権意識を批判することにしている。
正当な理由なり目的があれば殺人は許容される、これが日本人の「敵討ち」の人情の背後にあるロジックである。
言い換えると目的が世間の共感を集めれば、殺人ですら許容される、という社会である。これはある種の文化的な背景と言ってしまえば、そこまでだが、これが近代社会のあり方と相性が悪い。
これは先般の総選挙で共産党が口走って失敗した"社会的合意"の問題点でもある。
理論家の集まる、頭でっかち集団であるところの共産党が、このような"感情のフック"もしくは"共感のフック"を選挙戦術として採用した点も気になるところだが、それについてはここでは触れない。
傷つかない権利?
さて、昨今の世相を見ていると気になることがある。それは「傷つかない権利」の拡大・暴走が止まらないように見えることだ。
特に"フェミニスト"と称する一団の暴走が止まらない。
白饅頭氏の指摘で、今回取り上げたいのはこの点だ。
フェミニストが「萌え絵」を見たとき、間接的に強姦されているような気分になってしまう
この箇所を見て連想したのが"共感性羞恥心"だ。
上のコラムには共感性羞恥心を抱きやすい人間の特徴が4点挙げられている。
(1) 「失敗したくない」という気持ちが強い人
(2) 人目を気にする人
(3) 繊細な感性を持っている人
(4) 自分と他人との境界線が薄い人
日本人の傾向として言われる特徴が(1)(2)(4)に挙がっているのが興味深い。特に女性は「自分の男性に対する反応を他の女が見たらどう感じるか」という点に敏感である。言い換えると近接的な同性集団の視線、目線、圧力に同調しやすいのだ。「同性の仲間たちの反応を、自分の反応にする」から「女の敵は女」と言われる所以である。ある種の同調圧力メカニズムが強く働く。
それ故、他人の裸を見て勝手に恥ずかしくなる人間が、「裸体は不快だ」と騒ぎ、それを見た他の人間が同調するエコー・チェンバー現象が起きる。今回の騒動も、そのようなメカニズムから起きたのだろう。
傷つくのは個人の勝手だろう、という物言いがアウト、となるくらい精神的にひ弱な人間が増えてきたからこそ、「傷つかない権利」がエコー・チェンバーで増長していったのだろう。
不快感に公共性はない
そして先述の白饅頭noteで、もう1箇所、重要な点がある。
もっとわかりやすくいえば、「萌え絵」が自分たちだけでなく、実は一般男性や一般女性層からはそれほど好まれておらず、むしろ少なからず不快に思われているのを、彼女たちが肌感覚で気づき始めたのだ。
不快に思うのは個人の勝手だろうが、ここで"クソデカ主語"に直結させる。これはカテゴリー差別主義なのではないか?
そして不快感には公共性はない。
『「萌え絵」が自分たちだけでなく、実は一般男性や一般女性層からはそれほど好まれておらず、むしろ少なからず不快に思われている』が、それを根拠に規制を要求するのは無理筋なのである。言ってしまえば、妄想のホメオスタシスを現実と信じているトンマの寝言でしかない。
2019年のあいちトリエンナーレ騒動でも全く同じである。
表現は誰かを傷つけるのである。これが許せないというのであれば、近代の建前を否定することになるのだが、自称"進歩派"の諸君は覚悟はあるのだろうか?
共感圧力を利用してオルグせよ
再び先述の白饅頭noteから引用する。
行政のガイドラインに介入して「萌え絵はよくないもの」という価値判断を示させることができれば、これは単なる「お気持ちクレーマーの叫び」ではなくて、社会通念として共有された「コモンセンス」にすることができる。そしてその「コモンセンス」には、一般市民からの異論や反論が寄せられることは少なく、とりわけ世の多くの一般女性が大なり小なり賛同する。
フェミニストがいまもっとも恐れているのは、前回のVtuber騒動などの余波で「めんどくさいクレーマーは無視しろ」「フェミニストは社会的に有害な抑圧集団」などという世論が形成されてしまうことだ(前回の騒動は火付け役となった人びとの対応があまりにもお粗末であったため、致命的な失点を犯してしまった)。
こうなってしまえばフェミニストは立つ瀬を失い敗北する。そのような最悪のシナリオを回避するには、先んじて世論形勢をしてしまえばよい。一般女性にうっすらと「フェミニズム」「性嫌悪」の思想が広がっているいまがその好機だ。
「キモいオタクが勃起して喜んでいるような萌え表現は、公共空間には要らないですよね?!」と呼びかけられたならば、世の女性たちは表現の自由戦士よろしく「いや、そんなことはない。それも日本国憲法で保障された表現の自由のひとつだ」――などとはもちろん答えない。そのような問いにだれもがやんわりと首肯しながら「そうですね、そんな表現はよくないと思います」と答える。それが素朴な感情というものだ。
私たちは、自分が自由にふるまうことは大好きだが、他人の気に入らない自由を尊重したいなどとは思わず、あわよくばそれを封じ込めたいとすら感じている――それこそが人情、あるいは人間性というものだからだ。
これが表現規制派のやり方であるのだが、これを進めていくとかえってパターナルな社会に逆行していき、元々フェミニストが目指していた社会のあり方に逆行していく。
フェミニストと称する集団は、実は何かしらのイデオロギー的な結合からまとまっているのではなく、単に居場所が得られるだけという理由で糾合しているというもう一つの動機が、実はここにも見えてくる。
宮台真司氏が「透明な存在の不透明な悪意」(1997年)で指摘した動機付けと全く同じである。
それにしても。
「キモいオタクが勃起して喜んでいるような萌え表現は、公共空間には要らないですよね?!」と呼びかけ
↓
「そうですね、そんな表現はよくないと思います」と答えさせる
という一連の流れは、一昔前の左翼セクトのオルグのやり方そのものに見える。やっぱり「全国フェミニスト議員連盟」には、"怪しげ"な支援者が居るんじゃないかと思ってしまう。
先般の松戸の件も警察組織がターゲットだったことも怪しいけどね。
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