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牛丼と"ふしぎの海のナディア"

今日で父方の祖父が亡くなってからちょうど10年になる。当時の顛末はnoteに書いたが、それ以外に感じることもある。

ちょうど転職で実家に帰ってくるタイミングで祖父は亡くなったのだが、当時すでに寝たきりなんだか何かよく分からない状態で祖母も放置していたようなところがあったため、実際のところはいつから状態が悪かったのかは実家にいた人間は誰も知らなかった。

野球で言えば野手の間に打球が落ちるような状況である。

祖父が亡くなったことで諸々の問題がパンドラの箱を開けたかの如く噴出し、10年たった今でも実家や親族の人生と生活に影響を及ぼしているとは、当時、誰も思わなかっただろう。

当時の実家の状態

2012年の4月の頭、当時、地方都市赴任中だったが、研修のため東京に帰ってきていたことがある。

その時に実家で一言だけ祖父と会話を交わしたのだが、それが最後の会話となった。正直、祖父も頭が回っていたのか分からないので会話になっていたのか分からないが。一抹の寂しさのようなものが無いと言えばウソになるが、それは自分が就職したことに対する一族の嘆きのような空気だろう。

稿を改めて書きたいが、博士課程に進学していたら、2012年3月の時点で人生が詰んでいたはずという状態だった。そのくらい、そのくらいアカデミアからは脱出したかった。

さて、当時の実家は、祖父母と両親、弟の5人で暮らしていたのだが、この年の4月から弟も就職している。

弟の研修後の勤務地が、当時の自分と同じ地方ということもあり、GW頭に引っ越しを手伝いに行ったのだが、それから2か月で入れ替わるように自分が転職で東京に帰る、という流れだったのである。

これは当時の勤務先が人員削減を進めていたこと、転勤で戻ってきてもよかったのだが、将来性を見限って転職する腹だったので、既に転職活動を進めていたのであった。

そして6月末で今の会社を辞めて7月から新しい会社(今の勤務先でもある)に転職、というのが決まったのが5月中旬のこと。

というわけで6月末までの日程等々を決めて動いて、かつ、最後の後始末と向こうでのお楽しみを満喫しつつ、6月27の最終出社日を迎えたのであった。

1本の電話がオフィスを凍らせた

最終出社日の夕方、ようやく一通り片づけて社用PCの初期化だけが残った状態で完了を待っていたところ、実家から1本の電話が入る。

祖父が体調を崩して救急車で搬送されたという連絡であった。そのあとはずっと電話で話し込んでいいたため、最後のあいさつですらゆっくりできず。

そうこうして夜9時過ぎに帰宅したのだが、今思うと、そこからの3日間は激動の3日間となったわけである。

そして翌日は引っ越しの荷物搬出だったのだが、色々あって終わったのが夕方6時過ぎ。そこから実家に移動して10時過ぎに到着したのであった。

最後のお昼
実家へ

実家に就いた翌日の朝、祖父が搬送された先の病院から電話があって病院に向かうことになるのだが、タイミング悪く引っ越し荷物の搬入と重なり、と想像を絶する状況となったわけである。

牛丼と"ふしぎの海のナディア"

葬儀やなんだかんだが一通り片付いて、やっと落ち着いた状態で初めてありつけた食事がこれであった。

当時、近くにすき家があって、そこで買って帰ったもの。しかも「ふしぎの海のナディア」の再放送を見ながら食べていた記憶がある。何とも不思議なものだ。

今でもED曲の"Yes, I will"を聞くと、オンタイムで見ていたのにもかかわらず、この祖父の葬儀後の状況を思い出さざるを得ない。

大辛牛丼

ガス欠の2012年夏

気落ちというよりもガス欠状態に陥ったがゆえに7月中の予定は全てキャンセルして休養に専念せざるを得ない。

ようやく8月に入って気を取り直すべく外出した時の写真がこれだ。

久しぶりの〇〇線
初めての会場、第二幕はここから始まった

行先は伏せるが、ここも年々衰退が進んで目も当てられない状態になっているようだ。

多少は気分的にはリハビリにはなったとはいえ、これが10年以上続く悪い話の序章だったとは努々思ってもいなかった。

祖母の末期癌が見つかって騒ぎになるのは、この直後なのである。その直前の7月の後半くらいからか、「いつまで転職先に居られるのだろう」という不穏な予感がしていたのを覚えている。

そして2018年の3月に母方の祖母も亡くなって、自分から見た祖父も祖母も完全にこの世を去った後、ようやくリスタートできると思った矢先に別の問題が起きるのだが、それは別の話。

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