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社会人になると、祖父母が亡くなっても悲しくないことがある、という話

人はいずれ死んでいくものだが、よくあるのが祖父母が亡くなるということ。

自分が生まれる前におじいちゃんが死んでて…みたいなケースもあるだろうけれども、自分の場合は社会人になってから父方、母方両方の祖父母をのべ4回見送った。

不思議なもので、「悲しい」とか「寂しい」という感情を一切感じなかった。それは「そろそろ」という感覚があったので驚かなかったというのと、実際亡くなったとの連絡を受けてからの行動を振り返ってみると、そんな感傷というか余韻のようなものを味わうだけの余裕が無いのが大きかった気がする。

これが大人になるということの一つの側面なのだろう。

そして面倒なことに、当時、両親も定年前だったがゆえに厄介な問題が2021年現在でも残ることとなってしまった。

これは、そんな長いグチのような実話である。

父方祖父が亡くなった話(2012年夏)

2011年の東日本大震災後の不況から少しずつ明けてきたものの、当時の勤務先の右肩下がりぶりに嫌気がさして、本格的に転職活動をした。その結果、良さげなところから内定が出たので、そちらへ転職することにした。

独身だったこともあり、最悪、実家から通う羽目になることを想定しつつ、多少通いにくい立地だから勤務先近辺でアパートを借りて通う想定であった。これは、リスク管理の観点から実家に居る状況を避けつつも、いざとなれば実家に飛んでいく想定をしていたからである。

ところが転職先への初出社直前のタイミングで父親方の祖父が亡くなった。ほとんど急逝だった。

前職の最終出社日の夕方に実家から電話があってアレコレ大変だったのだが、その翌日に実家に戻ってからが正に地獄であった。

まず職場で片付けをしている時にかかってきた電話で、祖父が体調を崩して救急車で運ばれたという連絡があり、その時点で最後の挨拶という余韻すら無いという異常事態に放り込まれてしまった。

実家に戻ったのは電話を受けた日の翌日の夜10時。これは引っ越し荷物の搬出立会を終えてからの移動になったため。

当初想定では一旦実家に戻った上で、当面の間は実家から通いつつ、物件も探すという想定でいたためだった。

そして実家に戻った日の翌日朝に祖父は亡くなった。

そこからは部屋の片付けやら葬儀準備で一切マトモに食事ができる状況ではなく、落ち着いて食事にありつけたのが、亡くなった翌日の夕食、それも近所にあった牛丼屋のテイクアウトだったというのを昨日のように覚えている。
(余談だが、「ふしぎの海のナディア」再放送を見ながら、というのも覚えている)

不思議なことに「とにかく色んなことが飛んだ」という感覚しかなく、直後の7月3連休も元気が出なくて、引っ越し荷物の残りの開梱すら手付かずのままだったのである。

父親曰く

いつこういうことが起きるか分からないから、リスク管理はしておかないとね…

確かに、急に何が起きるか分からない。

祖父に関しては「たちの悪い」話があって、祖父は生前にとある私大の学長を努めていて、しかも父親の実弟が同じ私大の教員であること。この状況で元勤務先の私大に連絡すると、前期末〜期末試験のタイミングで事務方がパニックに陷るという事情があったのである。

そのため、定期試験が終わる時期に大学葬となるようなタイミングで連絡を遅らせるという対応を取ったのであった。

余談だが、転職先と祖父の元勤務先の大学はつながりがあるらしく、多分勤務先の当時の会長・社長は大学葬に行っていたのかもしれない、と思うと背筋が凍る。

税金対策の圧力

そしてこの頃から相続に関する猛烈なプレッシャーが自分にかかるようになるのである。実は実家の不動産は、普通に住んで相続で4桁万円の相続税、そして固定資産税・都市計画税も年額3桁万円である。

どういう家かと言うと、

- 100年くらい前に曽祖父母が移住してきた時に畑として持っていた土地
- 祖父母夫婦が曽祖父母から「家を建てて住め」と言われて住み始める
- 一つの敷地内に祖父母宅と両親宅が建っている

という経緯があり、2021年6月祖父母宅は現在空き家である。

話を戻せば、相続税はワンタイムでかかるので事前に積み立てておくとして、固定資産税が微妙な金額なのである。年額で見ると、実家近隣で2LDKを借りるよりは微妙に安い。

しかも、父方の親族間で区分所有ではなく共同名義で登記する形になっていることもあって、要らないから区分所有分だけ売るという手が使えない。

そのため両親が住まなくなって空き家になった場合は、整備して借家にするくらいしか手がない。

この共同名義で売らせないスキームを組んだのは、USCPA(米国公認会計士資格)持ちの父親の実姉である。お金のプロが考えてそうした、という側面もあり、余計なことでお金がかからないようにするという原則に則っている。

そりゃそうだろう。
別の場所でローンを組んで買おうが、ローンの支払いが終わらない間に失職しようものなら実家を引き受けて何とかする方が生活面で安定する。

何かしらの形で住むか、貸せる状態にして借家に出すくらいしか選択肢が無い。

が、こういう状況を嫌う人は居るらしく、この不動産の話を黙って結婚したとして、相続の話が出てきたら離婚事由になると言う話も聞く。

僻地の不便な土地ならまだしも、ここは山手線の駅から私鉄で15分+徒歩15分の土地なので、ホント、事と次第によっては揉める。

父方祖母が亡くなるまでの話(2012年夏〜2013年夏)

さて、(父方)祖父の大学葬まで終わったので一息つけると思ったら、実はそうでもなかった。

祖母もあまり体調がよろしくないということで病院で検査をしたところ、ステージ4の腎盂ガンが見つかったのであった。あと1~2年の余命宣告である。

そして、ここからが壮絶な闘病生活のスタートだった。

転職直後だったので、アレコレお誘い等々が多かったのは本来なら喜ぶべき話なのだが、この祖母の件があるおかげで、お誘いの多くを断らざるを得ない。

先輩の結婚式も「せっかくだから出席して」と言われていたのにもかかわらず、祖母の入院日が当日と重なることが決まって、祖母の入院付き添いの送迎に付き合うことになった。

この入院は、ガンが進行した側の腎臓の摘出手術のためのものだったのだが、2週間くらいで退院した記憶がある。

退院してからも、どうしても緩和ケアや抗がん剤治療が必要ということで、出入りの激しい状況であった。

こういう感じで3か月くらいが過ぎて行ったのであるが、実家に居るという状況に親が甘え始めるのが常である。

流石に通勤が面倒なために自分も体がきつくなってきたこともあり、並行して職場と実家の中間あたりに借りるアパートの物件探しをするようになるのだが、これも色々と立地にキツイ条件がかかっていたのである。

結局、何とか良さ気なところを押さえられたのだが、いつまでいるのか分からないという暫定引っ越しというつもりであった。何せ、祖母が亡くなったらどうするのか、という問題を一切考慮していない、というか、そこまでの余裕が無かった。

年が明けて具体的になってきたところで2月末から借りたところで仮住まいが始まったわけであるが、これがどうしようもない二重生活の始まりであり、とりあえずは自活しているフリに見せるための一人暮らしであった。

掃除洗濯などの家事はどうにでもなったのだが、やはり実家関係の買い出しを中心とした家事のサポートが重たい。

丁度この頃は、祖母が「お墓、お墓」とうるさかった。父方の曽祖父母の墓はあったのだが、前年(2012年)に亡くなった祖父と合わせて同じ墓に入りたくないという祖母の意向が大きい。結局、直線距離にして6kmのところの墓地を買ったのであった。

どうも曽祖父母と祖父母との間には何かのわだかまりがあったらしい、という話は聞いていたのだが、具体的にどういうことだったのかは、ひ孫の立場からは知りようがない。曽祖父は自分が生まれる前に木から落ちて死んでいるし、曾祖母も老人ホームにいるところしか記憶がない。

ちなみに曽祖父が落ちた木は、まだ実家の庭の片隅に生えている。

そうして祖父が亡くなってから1年が過ぎ、ようやく納骨もして、というところまできたが、この段階で祖母は自力では歩けないくらい弱っていた。

納骨から1か月もしないうちに祖母の状態が更に悪化して在宅介護が無理ということになり、ホスピスに入院することとなった。

入院してからしばらくしてお盆休み期間に入るのだが、その間も何が起きるか分からないということで、とにかく片付けに追われるのであった。まさに遺品整理のような状況である。

そしてホスピス入院から3週後の平日の夜、祖母は息を引き取った。自分はアパートで連絡を受けたのだが、何とも言えない「やっと終わった…」という安堵感があったのを覚えている。

末期ガンの患者対応は大変とは聞いていたものの、両親や叔父叔母の動きを見て、これはヤバイな…と肌で感じるケースだった。

父方祖父母の家が空き家になった後の話(2013年夏~2014年末)

隣の祖父母宅が空き家になってしまったが、廊下1本で実家とつながった形のため、空き部屋が大量にあるという状況となった。ところが祖父が大学教授だったために資料や学会誌、専門書が大量に残された状態なのである。

ちなみに、これは2021年現在でも変わらない。多少は片づけが進んだところはあるが…

これが定年前に実家が空き家になると起きる結果の一つなのだから、恐ろしい。

さて、父方祖父母がいなくなったこともあって、母親としても多少フリーハンドが出てくるのであるが、以前から意欲を燃やしていたオーストラリア旅行に憑りつかれ始めるのである。

2013年夏の段階でどうこう動いても年末休暇の予約は無理ということもあり、結局2014年の年末~2015年の年明けにかけてのタイミングで、パッケージツアー参加の形でオーストラリア旅行が実現する。

それでは、それまでの間はどうだったか?

一見すると無風で、穏やかな時期ではあったのだが、今思えば母親はオーストラリア旅行に神経を集中させるべきではなかった。この間に自分の婚活やら実家の整理にめどを立てておくべきだったのだ。

その理由は2015年以降の事情が大きい。2015年以降の話の前にこの時期の個人的なハイライトを述べておく。

2013年は春先から謎の鼻炎に悩まされてきたのだが、蓄膿症と判明したため2013年の秋に入院して手術を受けたのであった。これの治療は2015年まで続いたが、これ自体は大した話ではない。

翌2014年のポイントは、5年ぶりに母親の実家に行ったことである。事情は後述するが、母方の祖父は老人ホームに入っており、祖父を連れて墓参りに行くというイベントを組めただけでも可、という状況で、それはそれで平和なものであったのだが…

正直、祖父の痴呆が進んでいることもあって、孫の立場からすればあんまり楽しいものでもなく。とにかく義理で行ってきた、そんな帰省であった。

母親の実家の爆弾フラグ(2009年~2010年)

順序が逆だが前々から抱えていた母親の実家の爆弾について簡単に触れておく。

まずは2009年の出来事を簡単に述べる。

当時、転勤で自分の実家と母親の実家の間にあるとある地方都市に赴任していたのだが、たまたま休みが取れたこともあり、母親と母親の実家に1泊の予定で泊ってきたことがあった。

この時の狙いとしては、母親の実家のリフォームの下見というのがあり、母親が色々と手配して元同級生の建築士も呼んできた。そこまでは良かったのだが…

母方の祖父は、痴呆の前駆症状らしき、とにかくキレるという精神不安定が見られる状況で、実際、下見どころではなかったのである。

色々とトラブル尽くしだったため、追い出されるが如く母親の実家を後にする羽目になったのだが、その半年くらい後に大事件が勃発する。

2010年の1月のこと。祖父が暴れだして手が付けられないということで、祖母が1か月ほど近隣の親族宅を転々とするという事件が起きたのである。

そして状況が悪化したというので、とうとうこちらの実家に祖母が来ることとなり、さらに1か月ほどの間、預かるということになってしまったのである。

部屋の空き的には問題なかったとはいえ、母親の仕事の状況もあって事件が長期化してしまった。

最終的には祖父は老人ホームに入所することとなった、というのがオチだが、それまでの大騒動はいったい何だったのだろうか?

そしてそのくらいの時期だったか、母親の実弟が自分の赴任地に泊りがけで出張に行くからうまい店に連れていけということで、叔父と一席持った。

叔父からすれば姉である自分の母親のことを

姉は性格が過激

と断言。これで留飲を下げてしまうと同時に、その後の数年間の心労が想像できる、そういうフラグであった。

2010年の事件後に、先述の通り祖父は老人ホームに預けられることになった。
また、母親は盆と正月以外に仕事上の谷間を見ては実家に頻繁に帰るようになり、2拠点生活の手前のような状況になりつつあった。

身辺が不穏過ぎる2年間(2014年秋~2016年)

話を2014年の秋に戻そう。オーストラリア旅行は2014年末のことだが、この旅行に行く直前の時期から、とにかく不穏な空気が立ち込めてくるのである。

いわば最後の宴のような時期だったと言ってもいい。

そして旅行から帰ってきて迎えた2015年。

特に前半は仕事的に忙しかったのもあるのだが、4月と7月に2次的にコンタクトのある人物が立て続けに殺されるという身の毛のよだつ状況があったものだから、心理的に参ってしまった。

特に7月の事件は、被害者と自分の間にある共通の知人が相当狼狽えていたこともあって、フォローで7月が終わってしまった。

それで8月は気を取り直して、母親と2人で母親の実家に向かったのであるが、あまりにも現実は厳しかったと言わざるを得なかった。

2014年の帰省から1年の間に、祖父は胃ろうが必要な状態となってしまったのだが、やる・やらないで母方の実家で大喧嘩が勃発。結局胃ろうはすることになったのだが、ここまで来てしまうと、もはや何もできないというのが正直なところである。

そういう状態を見てしまうと、もう祖父が祖父に見えなくなってしまう。

そして2016年夏も帰省に同行したのだが、もはや祖母を慰めるしかできなかった。

母方祖父が亡くなった話(2016年末)

そして2016年の12月。曜日配列の関係で23日が金曜日となり、都合よく3連休となる。この機会を利用して帰省するかどうか母親は悩んでいた。というのも24日の土曜日に勤務先に用事が発生したものの、代わりを頼める状況だったので悩んでいたのである。

母親としては、ひとまずは小康状態だから年末に行こうと計画し、24日は職場に行く予定でいたのだが、23日の日中に一本の電話が母親に入る。それは祖父の死去を知らせる電話であった。

これはマズイ話の第二幕の始まりであった。

父親と自分、弟も24日に母親の実家に移動して合流、そこからお通夜や葬式を3泊4日の日程でこなすこととなった。

元々祖父は癇癪持ちな性格で、細かいことに口うるさい人物であった。どうも家計に関しても、財布の紐が相当固く、祖母は日常の買い物ですら苦労する日々だったらしい。こういう話は、それまで一切聞いたことが無かったのだが、その後も母親の実家に関する悪い話が出てくる出てくる!

とどめはお通夜の席。母親の実弟曰く

(祖父は)諸悪の根源!

まぁ、分かりますよ、おっしゃりたいことは…しかし、それを言っちゃぁおしまいよ…

一応は火葬まで終わったところで一区切り。母親を残して父と弟、自分で実家に戻り、母親は元旦まで滞在することとなった。

正月に叔父が母方祖母を殴った話(2017年頭)

色々やることを残しつつも、仕事を抱えている母親が帰ってきて、ひとまずは、というところで、母親の実弟から帰ってきたばかりの母親に電話。

あまりにも祖母がウジウジしているので一発殴ってやったとさ…

そのトラブルのおかげで、再び母親は自分の実家にとんぼ返りで飛んで行ったのであった。

母親の実家リフォーム完成と納骨(2017年後半)

そういうトラブルの裏でも地味に進んでいたのが、母親の実家のリフォーム。最終的に2017年の9月に完了して、一応は一人暮らしの祖母が楽に安心して過ごせるようになった。

お盆には祖父の骨を納骨したし、相続関係の手続きも進んだわけである。

そして母方祖父の分骨の納骨という一つのイベントが残っていたのだが、これのスケジュール決定から実施まで母親が音頭を取っていたはずなのだが、目先の仕事に忙殺されて当初予定の5月から9月に延期となっていたのである。

こういう他人の時間を奪っても平気でいられる感覚に怒りを覚えたのは自分だけではなかったらしい。

納骨先は京都の大きなお寺。当初想定では泊りがけだったのだが、台風接近ということで急遽日帰りに変更となった。自分のところからは新幹線で、母方親族は在来線特急1本で行けるということで、この強行軍日程となったのである。

本来の目的である納骨は無事終わり、あとは帰るだけなのであるが、事前に買ってある指定席券の変更を個別に行って散会!という流れだったのだが、JR京都駅の「みどりの窓口」で事件は起きる。

母方の祖母と母親の実弟は、同一方面の特急で帰ることになるのだが、叔父の方は終点で、祖母は途中駅で降りる。ところが祖母が降りる途中駅は半数が通過となる。

とにかく台風接近という状況のため、時間が許す限り一番早いスジで帰るわけだが、叔父が取った指定は祖母の降りる駅を通過、30分後の次のスジが停車。

そこで母親が

何で1本ずらして同じスジにしないのよ!(怒)

と言い始めて喧嘩が勃発したのであった。

後々で、自分から叔父に

うちの母親、ちょっと前から祖父と同じく、ちょっとしたことでも怒鳴り始めるようになってきちゃったし、何となくだけど祖父と同じ痴呆の前触れかもしれないよ?

と耳打ちしたら、叔父が青ざめてしまった。これが答えだったのかもしれない。ちなみに叔父は勤務医なので、一発で通じてしまうところが恐ろしいところである。

それにしても、たった1回の納骨だけなのに、色々揉めるというのはどういうことか。

元々2017年の5月後半の予定を確保していたのだが、GW直前になっても自分の仕事が忙しいと言うので母親が放置していたために、9月にずれたという経緯がある。

そのタイミングだったら別のことに時間を使いたかったのだが、無策にも実家でゴロゴロしていることを強制されるという結果となった。これだけでも他の親族から非難されても文句は言えまい。

今更ながら結婚相談所に連れて行かれた話(2017年末)

本来であれば2013年秋の蓄膿症の手術が終わったタイミングで動いておくべきだったのかもしれないが、うちの母親は余計なことで他人の時間を拘束しても何とも思わないという実に迷惑な人間である。

結果的に4年遅れの婚活スタートとなったわけだが、このスタートも今から思うと胸糞が悪い。

最初に連れて行かれたところが、事もあろうに学士会提携のところだった。母親が会員だったからと言うそれだけの理由である。

この一文だけで、自分の母親の属性の一部が想像できてしまうかもしれない。フルタイムで専門的な仕事に就いている博士号持ち、とだけ言っておく。

年明けから「とりあえず」お見合いを毎週末、多いときだと土日だけで4人を相手に、都内と横浜の4箇所を回るという強行軍日程になることもあった。

こうして週末も含めてフル回転状態が始まった中、最後の事件が起きたのであった。

母方の祖母が急死した話(2018年3月)

3月のある金曜日の午後、週明けから始まる客先作業の事前準備をしていたら、珍しく父親の携帯電話から着信があった。

折り返してみると、母方の祖母が急死したとの連絡があったので、明日から行けるか?と。

そこで急場しのぎで作業体制を組み直し、お通夜〜葬式までフルで行ける日程を捻出した上で、母親の実家に向かうこととなった。

当然のことながら、直後の土日もフルでお見合い日程が入ってしまっているので、これのリスケが発生する。結果的に、この会での婚活が台無しになる原因となってしまったが、個人的には進まなくて正解だったと思う。それについては機会を改めたい。

さて移動当日。とりあえずは無事に母親の実家に着いたのだが、そこで聞いた話がこうだ。

木曜日の夜に祖母が入浴している間にヒートショックで亡くなったらしい。セキュリティセンサーを設置していたため、12時間動きがないと自動的にセンターに通報となり、金曜日の朝に警備会社と警察が預けていた合鍵で入って確認したところ、祖母が亡くなっていたのを確認したとのこと。

ざっと言えば、こういう経緯だったのだが、それで母親や他の親族も呼び出されて事情聴取をして、とりあえずは病死ということで決着となった。

これで母親の実家は完全に空き家になったしまった。これは実に重たい。相続から後片付けの問題が大変だったのである。

母親はまだフルタイムの仕事が残っており、この時点で定年まであと3年が残っていた。本人としては定年まで全うするつもりで、実際に2021年春の定年まで勤め上げた。

とは言え、遠方にある空き家をどうするのか、という問題は未だに残っている。

今回は、葬儀も葬儀でバタバタ。檀家となっているお寺の住職、母親が直前に亡くなってこちらも大変な状態だったのである。

さらにタイミングの悪いことに、母親の勤め先であるプロジェクトが動いていて、役所に提出する書類の締切ギリギリの時期。コンビニプリントとコンビニスキャンを駆使して、こちらの書類仕事も並行して片付けるという、実にアクロバティックなことが起きていた。

これらのバタバタの中で、お通夜まで何とか終わらせて母親の実家を父と後にしたのであった。また母親は少し滞在して色々と片付けてから帰ってきたのであった。

母方の祖父の死去から祖母の葬式までの1年とちょっとの間というのは、自分にとってみれば、母親の実家のアレコレを見せつけられたような期間だった。特に母方親族のメンタル面のゴタゴタと、その原因は祖父にあったというのがよく分かった。確かに叔父が言うように「(祖父は)諸悪の根源」だった。

振り返ると…

父方祖父の急死から母方祖母の急死までのおよそ6年の間というのは、実に不安定な時期だったと言えよう。

一通り終わってから3年が過ぎ、父も母も定年退職、父は完全に引退、母は非常勤で籍を残してパートタイム労働者となった。

父親の実家はすぐ隣ということもあり、父は片づけに精を出している。母親の実家は遠方にあることもあって、一切手がつけられていない。これは今後の課題でもある。

そして母親が実家から持ち込んだ心理的なゴタゴタ。これが今の実家にもダメージを与えている気がしてならない。

これからの自分の人生も、この母親が実家から持ち込んだゴタゴタと以下に付き合っていくかで決まってしまうのではないかと思う。

結婚にあたっても、これを持ち越さないというのが最大の課題になるのではないか。

尤も、それで良いのかと言われても、答えようがない。
過去は変えられないのだから。

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