最近"マル激"を見返していて薄っすらと感じていたことをまとめてみる。
ちなみに"マル激"とは「開局以来、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司がお送りしている新しいタイプのニュース番組。多彩なゲストとともに、毎週重要なニュースを独自の視点から徹底的に掘り下げています。」という老舗の動画ニュースシリーズ「マル激トーク・オン・ディマンド」のことである。
今時の社会コスト
安心・安全・快適・便利、が優先される今時、「絆がコストだ」みたいな物言いが当たり前のように言われる。
定額給付金の議論でも垣間見えたが、"日本人"には国民相互の連帯感情が無い。
この日本人の傾向については実証的な研究がある。
山岸俊男『日本人が「他を信頼しない傾向」について実証的に説明』
https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/22_letter/data/news_2007_vol3/p03.pdf
結果として、個体の損得にコミットする人間ばかりになるがゆえに、生存戦略もそうなってしまうという。
これは汎システム化と並行して起きていることでもあり、日本社会は汎システム化に抵抗せずに便益の調達先がシステムに切り替えた人間だらけになった。
ところが、システムとて永遠ではない。
そのことが将来不安を生むのだが、「いまあるフレーム、レジーム、プラットフォームのなかでポジションを失いたくない」ので現状にしがみつくという心理・行動原理を生む。
そして、上述の問題系の一つとして「子育て支援」への社会的合意が得られなくなってきていることだ。
「世の中にある自己責任は、周りが助けないための理屈」
こういう観点で見れば、このあたりの白饅頭氏の指摘は、社会に対してコストを負担しても見返りがない、言い換えればcall & responseの無い"社会"に留まる動機付けが存在しないことを言い換えたものである。
上の記事を読むとリベラリズムに共同体存続規範が欠けていることが、致命的な欠陥で、それは外部性問題として現れていると指摘している。
こちらの記事は反社会的というより脱社会的な潮流が強まってきていることを指摘する。
以上のような潮流が「高度不信社会」を生み、そして「自己責任」が強調される原因になっているのだろう。
すなわち他人と関わるリスクとコストが高まり、人間関係が貴重品化する。
ここにもcall & responseの不在による他人への不信感が薄っすら広がっている光景が見て取れる。
そして人間関係は選べるという誤解から、人間関係の使い捨てが作法として当たり前のものとなっている現状もある。
これでは、汎システム化は避けられないだろう。