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ブルマを巡る話から見えるものと性的表現の今

最近のフェミニストは歴史を捨象するらしい

本論で一番紹介したいのは、↓の記事にある掛水氏のコメントだ。

「ブルマは社会の歴史、特に女性解放の歴史と重なります。コルセットで束縛され、広いスカートで動きにくい身体を解放し、自由で動きやすい服装としてブルマは考案されました。しかし、当時の女性は自立しておらず、男性から見て美しくなければならなかったため、ブルマが受け入れられることはありませんでした。その後、女性も社会進出を果たし、スポーツに参加するようになると、アメリカの学校の体操着として取り入れられ、その頃には、女性も自らが動きやすいことを考えるようになりました。日本でも、はじめはアメリカ同様受け入れられず、消えていきましたが、袴やスカートよりも動きやすいので、改良され続けていきました。月日は流れいつしか男子の性的なまなざしの対象となり、誕生した頃とは異なる女性解放の立場で消えていったのです」(掛水さん)
ブルマの発展、そして消滅には、女性が自分の意見を言えるようになった歴史が密接に絡んでいたのだ。

「女性が自分の意見が言える」ことが重要なのではないか?

そして追って出たコメント募集に付いたコメントが興味深い。

ただ忘れてはならないのは「当時は確かに新しい女性像を求めてブルマは採用された」ということです。たとえて言うなら、今の高校生のミニ風の制服スカートが10年ぐらい先に「あんな破廉恥なもの誰が採用したんだ!」というようなものです。
今ではブルマは「男子教員がスケベな目で採用した」などとまことしやかに言う人たちが居ますが、ブルマは正真正銘「当時の女性たちがかっこいい、新しい」と臨んだものなのです。
もちろん時代が変化すれば、その役割も変わります。ブルマが今ではほとんど見られないしもしかしたら絶滅しているのかもしれませんが、今の若い人たちには「あの時代、ブルマは女性たちが望んで採用されたものだ」ということはきちんと知っていてほしいです。
これらをきちんと説明せず「男性目線で採用された」というような風説が主流になるのは、無責任の極みだと思います。
どこかの国の人たちは「歴史を忘れた国に未来はない」と言っているようですが、まさにその通りだと思います。

歴史を捨象した思考は歴史に逆襲される。宮台真司は「"かわいい"は社会的文脈を無効化する」と言うが、昨今の"糞フェミ"を見ていると、男性目線を持ち出せば何でも否定できると信じているようだ。

千葉県警のVTuber動画削除問題に対する反応を見ても、「負け犬の遠吠え」だの「女性の誰もが自由な服装で自由な活動をできる日は、まだまだ遠そうだ」等々の声がある。

女性が性的なものを利用もしくはアピールすること自体が男に媚びているとしてアヤを付けるのが、最近のこの手の"団体"のやり口だが、そもそもその認知が間違っていると指摘する記事を先日書いた。

この調子だとフェミニスト議連のお歴々は女児アニメに出てくる「女の子にモテそうな子」も大嫌いなんだろうなぁ、と勝手に想像してしまう。

そして一連の騒動から見えてくるのは、女同士の格差であることも強調しておこう。特に評価を通じた承認が得られるかどうかの格差がある。

↑の記事は、そういう痛い勘違い女の一例だが、そういう大人こそ女児アニメに学べと申し上げたい。

ブルマの歴史との向き合い方に見る抵抗運動の黄金律

ブルマの歴史を調べた方によるまとめ記事2本。

2本目の記事のまとめが注目だ。

ブルマの歴史から何が言えるだろうか。まず弱い立場の人間が我慢して済んでしまうのならば、状況は変わらないということである。不満の声を挙げることは大事だが、弱者は2つの選択を迫られることになる。現状を耐えるか、反発して強者からの抵抗に耐えるか、である。この場合、短期的な苦痛は後者の方が大きいだろう。そうすると次第に脱落する者が増え、改革は失敗することになる。
ブルーマーが定着したのは、反対する者たちと戦って勝ったからではない。各自がやりたいことのために始め、隠れてでも続けたからだ。そうやってなし崩し的に普及したのである。
一方、密着型ブルマ廃止からは、権力側に変更のインセンティブを与えることが重要だと分かる。問題の責任を相手に移すのだ。
以上から「#KuToo」がどのように成功するか見えてくる。おそらくハイヒールやパンプスを履くことの辛さを訴えるだけでは何も変わらない。それは個人の甘えにすぎないと捉えられ、企業側として規則を変えるインセンティブが弱いからだ。
しかし、ハイヒールやパンプスによる怪我を労災とみなし、強制することをパワハラとして訴える流れとなったのなら、話は変わる。責任の所在が企業側に移り、変更するインセンティブが生まれるからだ。そして今の状況を見ていると、このような未来は近いと思う。どこかの企業が名指しで訴えられたら一気に変わるのではないだろうか。

「権力側に変更のインセンティブを与える」という考え方は重要だ。戦術として「問題の責任を相手に移す」。これは覚えておきたい。

この観点で千葉県警のVTuber動画削除問題を見てみれば、アヤさえ付ければ事なかれ主義の警察は動画を引っ込めるだろうというのがフェミニスト議連の想定だったのだろう。

ところが、地方議員の圧力という構図になってしまったがゆえに、この構図が問題視されてしまった。

こちらの対談での指摘。VTuber側が「性的で何が悪い」と言わずに、「あの動画は性的ではない」という言い方をして、フェミニスト議連の議論の土俵に乗ってしまったのが問題と指摘している。これは反社会的勢力の定義はないと閣議決定した安倍内閣の"土俵を作らない"やり方を思い出す。

子どもも見る女児アニメの"性的表現"

正直、"性的表現"バッシングにはうんざりしている。過剰な環境浄化で、これでは免疫が獲得できない現在の子供たちが将来苦しむだけだ。

少しわき道にそれるが昨今の性教育事情も同じらしい。性に関わるものはリスクとしか教えない。この過剰なまでの環境浄化への欲求は何なのだろう?

一方で、現実は、この程度↓の路線を幼稚園児が見ているのだが。大人目線で見ると、どういうシチュエーションなんだか脳がバグる。尤もこの作品、「大きなお姉さん」ファンが大量に湧く光景を見たことがあるので、それも「女性を"性的消費"する女性」という考え方にたどり着く個人的なきっかけだった。

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そして前半で引用した「女性が自分の意見が言える」を系(corollary)として含む概念が「女性が自分が表現したいものを表現できる」だ。

最近の女児アニメのキャラクターデザインの傾向として、女子ウケを前面に押し出すところがある。さらに言ってしまうと、女児アニメに限らずジャンルを問わずに女性ファンが付かないとビジネス的にスケールしない。これも「女性を"性的消費"する女性」で少し触れた論点だ。

その好例がプリキュアシリーズだ。

「プリキュアコスチュームクロニクル」を見て驚くのは、ウケる要素は計算で入れつつ、あとはキャラクターデザイン担当のアニメーターのセンスに任せるという作り方だ。キャラクターデザイン資料集も見てみると、女性スタッフにアンケートを取って決めたデザインもあるらしい。

その話の極北が水着表現の問題であったようだ。

この記事にはないのだが、別のインタビューで「キャラクターデザイン担当のアニメーターが女性だったので、水着デザインには女性のセンスで作ってもらった」というような話を読んだことがある。リファレンスがすぐに出てこないが…

女児向けという枠の中でありながら、逆に制限がないというパラドキシカルな条件が付きつけられているのが、この女児アニメという不思議なジャンルなのである。

比較の観点で1960~1980年代の同ジャンルの絵を見ると、実は基本的な部分は変わっていないように見える。

その意味では、底流は変わっていないと言えるし、この手の少女モノから萌え系が派生した歴史もある。

だからこそ、チェリーピッキング的、ターゲットキル的な攻撃は、いずれマップ兵器のごとく全てを焼くようになるだろうと予言した。

まだ、この段階には至っていないようだが…と申し上げたいところだが、先述の「プリキュアの水着表現」の記事にもあるように、違う形でのクレームという形で顕れていることは強調しておきたい。

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