黄帝内経素問集注(上古天真論1-2)

翻訳

現代の人々はそうではありません。酒を飲み物のようにします。妄想を常とし、酔って部屋に入ります。
(酒は脾を傷つけます。脾気が傷つけられると、五穀の味を宣べることができず、生気も傷つけられます。妄想を常とすることは、精神を傷つけます。酔って部屋に入ることは、精気を傷つけます。現代の人々は知らないでしょう。放縦な欲望に従い、その結果、精気と精神を傷つけているのです。)

欲望によって精気を尽きさせ、真の本質を消耗させます。持ち物を満たず、神を適切な時に駆使することを知りません。
楽しみと欲望を混同し、軽率に散漫に過ごすことを耗散と言います。真とは、本来の真の気のことです。満たすことを知らず、慎重でない。神を適切な時に駆使できず、四季に合わせて調和させることができません。知らない人は、慎重に調整し養うことができず、結果として精神やエネルギーを失います。)

心を急いでしまい、生活の喜びとは逆の方向に進んでいます。起床や就寝に規則性がなく、その結果、半世紀を過ぎた頃には衰えてしまいます。
(心は神を宿すものです。しかし、人々は心を急がせ、その結果、神を失ってしまいます。楽しむと気が緩み、逆にそれに反することを追求します。これにより気を傷つけてしまいます。また、規則正しい生活を送らず、それによって精気を消耗してしまいます。現代の人々はただ楽しみに従事することに執着し、精気や神を積み上げることができないため、半世紀を過ぎると衰えてしまうのです。)

上古の聖人の教えは、みなそれを虚構や邪悪な風と呼んでいました。それを避けることには時があります。静かで淡々とした心境、空虚さの中に真の気が宿ります。精神を内側に守り、病気は安んじてやってきます。
(虚邪とは、虚偽で不正な風習のことです。恬は穏やかで静かさを指し、淡は質素さを表します。虚無とは、物欲に惑わされずに心を空にすることです。上古の人々は聖人の教えに触れ、内面で健康を修め、外部の邪悪を避けることで、百歳まで生き、体の動きも衰えませんでした。)

それゆえ、志は静かで欲望は少なくなります。心は安らかで恐れを知りません。身体は疲れることなく勤勉です。気は順調に流れ、それぞれが自分の欲望に従って行動することで、望むものを全て手に入れることができます。
(恬淡で無為であるからこそ、志は静かで欲望は少なくなるのです。精神を内側に守るからこそ、心は安らかで恐れを知りません。身体は労働しても疲れることはありません。真の気に従うからこそ、気は順調に流れます。五つの方角の人々は、衣食住行において、それぞれが自分の欲望に従います。だからこそ、皆が望むものを手に入れることができるのです。)

そのため、食事を美味しくすることに心を配ります。服装においても自由を与えます。地元の習慣に楽しみを見出します。高く上位であることや低い存在に嫉妬することはありません。その人々は素朴と言われます。
(それゆえ、前の文脈に基づいて言えば、異なる地域には適した法則があります。東方の人々は、それぞれの場所で平穏さを求め、食事を美味しくすることに喜びを見出します。西方の人々は山や丘に住み、質素な衣服を身に纏い、華やかな食べ物を食べて豊かに肥えます。北方の地域では、高い丘や山に住み、風が冷たく氷が冷たい環境です。彼らの人々は野原で楽しんで暮らし、乳製品を食べます。南方の地域では地形が低く、水と土壌が弱いです。彼らの人々は酸味を好み、それを食べます。中央の地域では、地形は平坦で湿気が多く、人々は様々な食べ物を楽しみ、労働をせずに暮らします。これらは五つの方角の人々であり、彼らは天地や自然の万物に従って生活し、山川や地域の高低、衣食住行において、それぞれが自分の欲望に従います。彼らは互いに愛慕しません。だから彼らの人々は「朴(ぼく)」と言われるのです。)

そのため、過度な欲望は目を疲れさせることができず、淫らな邪念は心を惑わすことができません。
(これは、五つの方角の人々について述べたもので、それぞれが欲望や邪念に耽ることによって病気になると言っています。しかし、上古の恬淡な時代では、人々は平和に暮らし、風俗に楽しみを見出し、外部の欲望や憧れに囚われることはありませんでした。そのため、たとえ欲望や邪念があっても、内面には害を及ぼすことはありませんでした。)

愚者も賢者も肖者も、物事に恐れることはありません。そのため、彼らは道に適合しています。
(上古の人々は、高貴や卑しい、賢いや愚かなどの区別をせず、みな道徳を備えており、危険にさらされることはありませんでした。そのため、彼らは外部のものに恐れを抱くことなく、健康と養生の道に合致していました。)

それゆえ、彼らは皆百歳まで生き、体の動作は衰えませんでした。それは彼らの徳が完全であり、危険にさらされることがなかったからです。
(徳とは、天の明徳によって得られるものです。完全であり、危険にさらされることはありません。荘子は言いました。「道を守る者は徳が完全であり、徳が完全である者は体が完全であり、体が完全である者は聖人の道である」と。)

原文

今時之人不然也。以酒為漿。以妄為常。醉以入房。
(酒能傷脾。脾氣傷。則不能宣五穀味。而生氣傷矣。以妄為常。傷其神矣。醉以入房。傷其精矣。言今時之人。不知道者。縱嗜欲而傷其精氣神也。)

以欲竭其精。以耗散其真。不知持滿。不時御神。
(樂色曰欲。輕散曰耗。真者。元真之氣也。不知持滿。不慎謹也。不時御神。不能四時調御其神也。言不知道者。不能慎謹調養。而喪其精氣神也。)

務快其心。逆於生樂。起居無節。故半百而衰也。
(心藏神。務快其心。喪其神守矣。樂則氣緩。而更逆之。傷其氣矣。起居無節。耗其精矣。言今時之人。惟務快樂。不能積精全神。是以半百而衰也。)

夫上古聖人之教下也。皆謂之虛邪賊風。避之有時。恬淡虛無。真氣從之。精神內守。病安從來。
(虛邪、虛鄉不正之邪風也。恬、安靜也。淡、朴素也。虛無。不為物欲所蔽也。言上古之人。得聖人之教化。內修養生之道。外避賊害之邪。所以年皆度百歲。而動作不衰。)

是以志閑而少欲。心安而不懼。形勞而不倦。氣從以順。各從其欲。皆得所願。
(恬淡無為。是以志閑而少欲矣。精神內守。是以心安而不懼。形勞而不倦矣。真氣從之。是以氣從以順矣。五方之民。衣食居處。各從其欲。是以皆得所願也。)

故美其食。任其服。樂其俗。高下不相慕。其民故曰朴。
(故者。承上文而言。按異法方宜論。東方之民。皆安其處。美其食。西方之民。依山陵而居。不衣而褐荐。華食而肥脂。北方之域。其地高陵居。風寒冰冽。其民樂野處而乳食。南方之域。其地下。水土弱。其民嗜酸而食 。中央者。其地平以濕。其民食雜而不勞。此五方之民。隨天地萬物之所生。山川地土之高下。衣食居處。各從其欲。彼此不相愛慕。故其民曰朴。)

是以嗜欲不能勞其目。淫邪不能惑其心。
(此複言五方之民。各有嗜欲淫邪而致病。惟上古恬淡之世。民皆安居樂俗。而無外慕之思。故雖有嗜欲淫邪。不能傷其內也。)

愚智賢不肖。不懼于物。故合於道。
(上古之人。無貴賤賢愚。皆全德不危。故不外懼于物。而合於養生之道焉。)

所以能年皆度百歲。而動作不衰者。以其德全不危也。
(德者。所得乎天之明德也。全而不危者。不為物欲所傷也。莊子曰:執道者德全。德全者形全。形全者。聖人之道也。)


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