黄帝内経素問集注(四氣調神大論2-3)

翻訳

雲霧が精彩を欠くと、上には白露が降りず、下には降りず。
(地の気が上昇して雲や霧になり、天の気が下降して雨や露になる。雲霧が精彩を欠くのは、地の気が上昇していないことを意味する。地の気が上昇しないと、天の気も下降しない。それによって上には白露が降りず、下には降りない状態になる。前節では天気が閉塞していると述べている。この節では地の気が潜んでいると述べている。天地が交わらず、病気になる。)

交通が表れず、万物の命が発揮されない。
(交通とは、外に表れることを指す。天地の気が上下に交わるものの、六合九州の外では表れないため、万物の命はその働きを受けることができない。命が発揮されないと、名高い木々も枯れてしまう。木は万物の最初の生命である。前節では上下との交通がないことを言っている。この節では四方への運用がないことを言っている。)

悪い気が発せず、風雨が調節されない。白露が降らないと、草木は栄えない。
(菀とは茂った木や禾の茎を指す。前節では天地の気が発揮されず、名高い木々が枯れることを言っている。この節では四季の気が適切に働かず、草木が栄えないことを言っている。悪い気や怒りの気を指す。脈要精微論には「秋の怒り、冬の怒り」とあります。悪い気が発せず、厳粛さや冷たさが失われる。風雨が調節されず、穏やかさや明るさが失われる。白露が降らないと、湿った湿地や水たまりの潤いがなくなる。四季が乱れている。茂った木々や美しい穀物でも栄えることはできない。四季の順序が乱れています。秋の湿った土の主な気。湿熱の気が上昇し、その後に清涼な露が降りてくるため、悪い気が発せず、秋冬の令が時期外れです。風雨が調節されず、春夏の気が正常ではありません。白露が降らないと、長夏の気が変化しません。莫仲超は「菀は郁菀、茂木を意味し、禾の茎を意味します」と言っています。上節では天地の気が発揮されず、名高い木々が枯れることを言っています。この節では四季の気が適切に応答せず、草木が栄えないことを言っています。天地の気が調和せず、四季の気も正常ではありません。悪い気や怒りの気を指します。)

賊風が頻繁に吹き、豪雨が頻繁に起こる。天地の四季が相互に保たれない。道とは相いれず、未だ太陽が絶える。
(賊風とは陽気が正しくなく、過剰なことを指します。豪雨とは陰気が正しくなく、偏っていることを指します。前文を総括して、天地の四季が調和せず、天地の陰陽が修養されない場合、絶滅の危機が迫ります。)

ただ聖人だけがそれに従い、その身に異病がなく、万物が失われず、生気が尽きない。
(ただ聖人だけが天地の四季の不調和に順応し、その精神気を修養するため、異常な病気にかからないのです。万物には自然の生気があります。正しくない陰陽に遭遇しても絶滅することはありません。ただ人間は欲望によって傷つけられます。時期に逆らうと死に至ります。聖人は内部で生命を養う方法を修行し、外部の正しくない時期に順応します。万物と共に自然のままであり、生気が絶えません。朱濟公は「菀は郁菀、枯れることを意味します。四季の気が働かず、草木が枯れ朽ちて栄えません」と述べています。)

逆に春の気を逆らうと、少陽が生まれません。肝気が変化します。夏の気を逆らうと、太陽が成長しません。心気が内部を洞穴化します。秋の気を逆らうと、太陰が収束しません。肺気が焦げて満たされます。冬の気を逆らうと、少陰が秘匿しません。腎気だけが沈みます。
(これは陰陽の気が時間に応じて出入りすることにより、逆になると各季節が支配する臓器が内部で病気になるということを説明しています。少陽は春の生気を支配するもので、春の気が逆らうと少陰が生まれず、肝気がうつ状態になります。太陽は夏の成長を支配するもので、太陽が成長しないと心気が虚弱になります。太陰は秋の収穫を支配するもので、太陰が収束しないと肺が熱くなり膨満します。少陰は冬の秘匿を支配するもので、少陰が秘匿しないと腎気が虚弱になります。最初の論では触れるものが少なく、生じる臓器が病気になります。これは四季の気が逆らい、四季を支配する臓器の気が内部で病気になることを説明しています。朱濟公は「少陽は厥陰の中に見られる変化を支配するもので、少陽が生まれないと肝気が内部で変化します。心は陽の中の太陽であり、太陽が成長しないと心気が虚弱になります」と述べています。)

だから、四季の陰陽は万物の根本であり、聖人は春に陽を養い、秋と冬に陰を養います。それによって根本に従います。
(四季の陰陽の気は生長と収束、保存という役割を果たし、万物の根本となります。春と夏の時には陽が外に盛り上がり、内部は虚弱な状態です。秋と冬の時には陰が外に盛り上がり、内部は虚弱な状態です。したがって、聖人は春に陽を養い、秋と冬に陰を養うことで根本に従い、培養するのです。楊君が質問したところ、前の節では秋と冬の時には陰が収束すると述べられていますが、この節では秋と冬の時には陰が外に盛り上がると述べられています。陰陽の道には二つの意味があります。天は陽であり、地は陰です。天は地を包み込み、地は天の中に存在します。陰と陽の二つの気はともに地から出てきます。陰は地中に保存されますので、「未だ地から出ていない」と言います。これを「陰主收藏」と言います。収束された陽の気を保存するためです。)

したがって、聖人は万物と共に生長の門に沈浮します。
(万物はこの根本があって初めて生長することができます。聖人はその根本を培養することを知っているため、万物と共に生長の門に帰することができるのです。朱濟公は「陰陽が出入するため、それを門と呼ぶのです」と述べています。)

根に逆らうと、本を切り倒してしまいます。真を破壊します。
(根とは、木の根のようなものです。本とは、木の幹のようなものです。真とは、草木が持つ生命のことです。逆に春の気を逆らうと、少陽が生まれません。逆に夏の気を逆らうと、太陽が成長しません。これが根に逆らうということです。逆に春の気を逆らうと、成長するものが少なくなります。逆に夏の気を逆らうと、収穫するものが少なくなります。これが根に逆らうと本を切り倒すことになります。逆らうと災害が生じ、逆らうと死に至ります。これが真を破壊することと言います。)

四季の陰陽は万物の根本であり、生死の源です。逆らうと災害が生じ、従うと苦痛が起こりません。これを道と呼びます。道は聖人が行うもので、愚者はそれを信じるものです。
(言わんとするのは、天地の陰陽と四季の中には、順応と逆行、生と死の道があるということです。しかし、死生の数え切れない時を超えることはできません。ただ聖人だけがその道を修行し、精神と気を養い、寿命を天地に侵されることなく持ち続けます。愚者は服従するだけであり、修行はできません。したがって、この道を知っているが実践できない者は、聖人とは言えないのです。)

陰陽に従えば生まれ、逆らえば死ぬ。従えば治り、逆らえば乱れる。順行に逆らえば逆行で、内なる制約となる。
(前節では天地の陰陽と四季の中にある道に従うことが、吾身の中の陰陽五臓にもあると言っています。陰陽五臓の中にも順応と逆行、生と死の道があるのです。したがって、順応すれば生まれ、逆行すれば死ぬことになります。順応すれば治り、逆行すれば乱れます。順に逆らうのは逆行であり、乱れた状態です。)

だから、聖人はすでに病気になったものを治療せず、まだ病気になっていないものを治療する。すでに乱れたものを治療せず、まだ乱れていないものを治療する。これが言っていることである。病気がすでに成立してから薬を与えるのは、渇いてから井戸を掘るようなものです。斗が作られてから錐を鋳造するのと同じです。遅すぎるのです。
(金匱玉函には、「先に治すのは未病です。なぜなら、肝の病気を見れば、肝が脾に伝わることを知り、まず脾を補うべきです。脾に逆行する気を受けさせず、肝の気が心に継続的に順行するようにします。逆行を順行とし、乱れを治療とするのです。もし五臓の気が既に乱れ、五臓の病気が成立しているならば、それを治療するのです。それは渇いてから井戸を掘ることや、戦いが起きてから兵器を鋳造することと同じです。何の助けにもなりません。この篇では天地の陰陽と四季の気に順応して、吾身の中の陰陽五臓を養うことを言っています。経曰く、「五臓相通し、移皆有次。」(五臓は相互に連携し、それぞれに次序があります)五臓が病気になると、それぞれが相手に勝ち、逆行してしまうためです。))

原文

雲霧不精,則上應白露不下。
(地氣升而為雲為霧,天氣降而為雨為露。雲霧不精,是地氣不升也。地氣不升,則天氣不降。是以上應白露不下。上節言天氣閉塞。此節言地氣伏藏。天地不交而為痞矣。)

交通不表。萬物命故不施。不施則名木多死。
(表、外也。揚也。言天地之氣雖上下交通,而不表彰于六合九州之外,則萬物之命,不能受其施化矣。不施則名木多死。蓋木為萬物之始生也。上節言不交通於上下。此節言不運用於四方。)

惡氣不發,風雨不節。白露不下,則菀 不榮。
(菀音郁菀、茂木也。 、禾稈也。上節言天地之氣不施,則名木多死。此複言四時之氣不應,則草木不榮。蓋天地之氣不和,而四時之氣亦不正矣。惡氣、忿怒之氣也。脈要精微論曰:彼秋之忿。成冬之怒。惡氣不發,則失其勁肅嚴凜之令矣。風雨不節,則失其溫和明曜之政矣。白露不下,則無溽蒸濕澤之濡矣。四時失序。雖茂木嘉禾,而亦不能榮秀也。按、歲運四之氣。大暑立秋。處暑白露。乃太陰濕土主氣。蓋濕熱之氣上蒸,而後清涼之露下降,故曰惡氣不發者。言秋冬之令不時也。風雨不節者。言春夏之氣不正也。白露不下者。言長夏之氣不化也。莫仲超曰:菀郁也。 枯也。言四時之氣不行,則草木枯願而不榮。)

賊風數至。豪雨數起。天地四時不相保。與道相失,則未央絕滅。
(數音朔賊風數至。陽氣不正而太過也。豪雨數起。陰氣不正而偏勝也。此總結上文而言。天地四時。不相保其陰陽和平,而又失其修養之道,則未久而有絕滅之患矣。)

唯聖人從之,故身無奇病。萬物不失。生氣不竭。
(惟聖人能順天地四時之不和,而修養其神氣,故無奇暴之害。夫萬物有自然之生氣。雖遇不正之陰陽,而不至於絕滅。惟人為嗜欲所傷。更逆其時則死。聖人內修養生之道。外順不正之時。與萬物不失其自然,而生氣不絕也。朱濟公曰:此即與萬物浮沉于生長之義。此言萬物之有生氣,後言萬物之有根本。)

逆春氣則少陽不生。肝氣內變。逆夏氣則太陽不長。心氣內洞。逆秋氣則太陰不收。肺氣焦滿。逆冬氣則少陰不藏。腎氣獨沉。
(此論陰陽之氣,隨時出入,逆則四時所主之臟,自病於內也。少陽主春生之氣,春氣逆則少陰不生,致肝氣鬱而內變矣。太陽主夏長之氣,太陽不長,則心氣虛而內洞矣。太陰主秋收之氣,太陰不收,則肺葉熱焦而脹滿矣。少陰主冬藏之氣,少陰不藏,則腎氣虛而獨沉矣。首論所奉者少,而所生之臟受病。此論四時之氣逆,而四時所主之藏氣,亦自病焉。濟公曰:少陽主厥陰中見之化,故少陽不生,而肝氣內變。心為陽中之太陽,故太陽不長,而心氣內虛。)

夫四時陰陽者。萬物之根本也。所以聖人春夏養陽。秋冬養陰。以從其根。
(四時陰陽之氣。生長收藏。化育萬物,故為萬物之根本。春夏之時。陽盛於外,而虛於內。秋冬之時。陰盛於外,而虛於內,故聖人春夏養陽。秋冬養陰。以從其根而培養也。楊君舉問曰:上節言秋冬之時。陰主收藏。此複言秋冬之時。陰盛於外。陰陽之道。有二義與。曰:天為陽。地為陰。天包乎地之外。地居於天之中。陰陽二氣。皆從地而出。複收藏於地中,故曰未出地者。名曰陰中之陰。已出地者。命曰陰中之陽。所謂陰主收藏者。收藏所出之陽氣也。)

故與萬物沉浮于生長之門。
(萬物有此根,而後能生長。聖人知培養其根本,故能與萬物同歸於生長之門。濟公曰:陰陽出入,故謂之門。)

逆其根,則伐其本。壞其真矣。
(根者。如樹之有根。本者。如樹之有干。真者。如草木之有性命也。逆春氣則少陽不生。逆夏氣則太陽不長。所謂逆其根矣。逆春氣則奉長者少。逆夏氣則奉收者少。所謂逆其根則伐其本矣。逆之則災害生。逆之則死。是謂壞其真矣。)

故陰陽四時者。萬物之終始也。死生之本也。逆之則災害生。從之則苛疾不起。是謂得道。道者。聖人行之。愚者佩之。
(言天地之陰陽四時。化生萬物。有始有終。有生有死。如逆之則災害生。從之則苛疾不起。是謂得陰陽順逆之道矣。然不能出於死生之數。惟聖人能修行其道。積精全神,而使壽敝天地。無有終時。愚者止於佩服,而不能修為。是知而不能行者,不可謂得道之聖賢也。)

從陰陽則生。逆之則死。從之則治,逆之則亂。反順為逆,是謂內格。
(上節言天地四時之陰陽。有順逆死生之道。此複言吾身中之陰陽。亦有順逆死生之道焉。蓋天地之陰陽,不外乎四時五行,而吾身之陰陽,亦不外乎五行六氣。是以順之則生,逆之則死。所謂順之者,陰陽相合,五氣相生。東方肝木,而生南方心火。火生脾土。土生肺金。金生腎水。水生肝木。五臟相通。移皆有次。若反順為逆。是謂內格。內格者,格拒其五臟相生之氣,而反逆行也。)

是故聖人不治已病,治未病,不治已亂,治未亂,此之謂也。夫病已成而後藥之,亂已成而後治之。譬猶渴而穿井。斗而鑄錐。不亦晚乎。
(金匱玉函曰:上工治未病。何也?師曰:夫治未病者。見肝之病。知肝傳脾。當先實脾。蓋不使脾受逆氣,而使肝氣仍複順行於心。是反逆為順,反亂為治也。若五臟之氣已亂,而五臟之病已成。然後治之。是猶渴而穿井。戰而鑄兵。無濟于事矣。按此篇以天地之陰陽四時,順養吾身中之陰陽五臟。蓋五臟以應五行四時之氣者也。經曰:五臟相通,移皆有次。五臟有病,則各傳其所勝,故所謂從者,四時五臟之氣。相生而順行也。逆者,五臟四時之氣,相勝而逆行也。)


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