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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #027

「いえ、違います。それは私が、別の知り合いからもらったものです」
 凛子は嘘をついた。嘘をつかざるを得なかった。
「証拠は? それをもらったという証拠はあるの?」
「証拠はありませんが、美奈さんだって、証拠はないですよね」
 言葉を受けて、美奈の顔が歪むのがわかった。人の顔って、こんなふうに歪むんだ、と凛子は思った。まるで、別人のお面をつけたかのような顔に。いや、いままで付けていた面をはぎ取ったのか。どちらなのかはわからない。だが、研究室で穏やかに微笑んでいた美奈はもうどこにもいなかった。髪型も違うし、服装も、化粧も違うその人は、凛子からすれば、突然押し入ってきた強盗のようなものだ、と思った。
 いままで日常だと思っていた風景が、その人の存在によって、いっぺんに違う風景へと変わる。ここが自分の住んでいるマンションの部屋だということも忘れてしまった。
「言う必要はない? いいえ、言う必要はあるわ。あるに決まってるじゃないの。あの人のものなんだから。あの人が、函南社長からもらったものなんだから」
「だから、違うって言ってるじゃないですか」
「じゃあ誰なの! 答えてよ!」
 美奈は絶叫した。後ろで結んでいた髪留めが取れ、長い髪を振り乱しながら叫ぶ様に、凛子は凍り付いた。人間という生き物の深淵を見たような心持ちがした。
「美奈さん、落ち着いてください」
「どうして、どうして……、みんな私から奪って行くのよ? そんなに多くのことを望んでいたわけじゃない。ただ、当たり前の……普通の幸せが欲しかっただけなのに……」
 美奈の声が部屋じゅうに響き渡る。その一言一言が、凛子の胸に刺さった。人がひとり亡くなれば、周りの人の心は、傷つけられる。しかし、いちばん側にいたこの人が、いちばん傷ついている。それを向ける先もなく、ただ周りの人に当たり散らしている。
 だが、と凛子は思った。魚を取られるわけにはいかない。
 なぜなら、『魚』は、先輩自身だから。『魚』を使って、『あの世界』に行きさえすれば、いつでも先輩に会えるから。
 だから、取られるわけにはいかない。相手が誰であろうと。
「いいわ、確認するから」
 美奈はそう言うと、携帯電話を着替えのポケットから取り出した。おそらく、さっき着替えたときに元の自分のジーンズから移したのだろう。
 函南社長の番号を知っているのだろうか、と凛子は思った。この『魚』の出所を、凛子は聞かされていない。なんの前兆もなく、突然、先輩本人から、これを預かってくれないかと請われ、その理由を問いただすこともできずに、先輩はひとりでいなくなってしまった。この『魚』は、買ったものなのか、もらったものなのか、それすらも凛子は知らない。
 もし、函南社長から先輩が譲ってもらったもので、本人にじかに確認を取られたら、凛子の嘘がバレてしまう。どうしよう、と逡巡した。あきらかに異常な精神状態の美奈が、電話をかけたところでまともな対応をしてくれるとは思えなかったが、もし確認を取られてしまったら。

(つづく)


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