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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 前編 #092

 美穪子が何も言えずに黙っていると、電話は切れた。もう終わりだ、と美穪子は思った。江利子にまで見捨てられたら、もう生きていけない。美穪子は急いでバッグから精神安定剤を取り出し、口に投げ入れた。
 しばらく、誰もいない待ち合い室で、パソコンのディスプレイを見つめながら呆然としていた。ディスプレイにはデスクトップの壁紙が表示されているだけで、何も映ってはいない。壁紙は、瀧本や江利子と行った温泉旅行の写真が中央に表示されている。自分の両親を失って、二人と出会ってから、この二人を本当の家族だと思って美穪子は生きてきた。二人を失うことは、人生の終わりと同義だった。
 不意に掛け時計がポーンと鳴り、七時を告げた。精神安定剤が効いてきたのか、少しだけ現実的なことについて考える余裕が出来ていた。みんなの夕食を作らなければ。美穪子はヨロヨロとは立ち上がった。
 瀧本と出会ってから、美穪子が熱中したのは、料理だった。それまで全く料理などしたことがなかったが、ふと、クッキーを焼いてみようかな、と思い立った。女の子というものは小学校の高学年ぐらいになると、クッキーを焼くことができるようになるらしい、と思い出したのだ。なぜクッキーなのかはわからなかったが、インターネットを使って材料を調べ、買い出しに出かけた。道具で足りないものがありそうだったので、それも買うことにした。インターネットで作り方と材料、それを売ってそうなお店を探し、そこまでの道のりもすべて調べた。当日に着ていく服も用意した。買い出しに出かける前日は緊張して、なかなか寝付けなかった。すべての情報が書かれたメモの束を握りしめながら美穪子はこっそりと家を出て、店へと向かった。
 はじめは自分のことを周りの人が見ているんじゃないかと緊張したが、じきに誰も自分のことなんて気にしていないんだ、ということがわかった。特に、道具を買うときに緊張が走った。料理なんてろくにしたこともないのに、こんなものを買って、おかしくないだろうか。恥ずかしい。買うときにカゴに入れるときも恥ずかしかったが、それをレジに持って行くときが最も恥ずかしかった。相手になんて思われるだろう。目をどこに向ければいいかわからない。だが、レジを打っている店員はそんなことを気にするふうもなく、淡々と会計をし、金額を告げた。その突き放し具合が、なんとも心地よかった。だが、買い物が終わる頃には、全身に冷や汗をかいていた。
 家に帰って叔母に説明しなければならないことが憂鬱だったが、叔母は美穪子の荷物を見るとすぐにキッチンを使わせてくれた。なんて説明すればいいんだろうと途方に暮れていた美穪子にとって、何も言わずに場所を使わせてくれたことがありがたかった。
 慣れない手つきで、インターネットで調べた通りのものを作ってみたのだが、結果は惨憺たるありさまで、自分には分不相応だったのだと絶望した。だが、日をあらためてもう一度チャレンジしてみると、前回よりは少しだけさまになったものが作れて、わずかな前進が感じられた。別に人に食べさせたりするために作っているわけではないけれど、わずかでも前に進んでいるという実感があるのは嬉しかった。

(つづく)


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