見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 前編 #058

 函南の部屋は二階の角部屋で、神経質なぐらい綺麗に片付けられていた。ただ、机の上には乱雑な文字や図形が書き付けられたコピー用紙が散乱していた。机の上にはコンピュータがあったが、瀧本は学校でそれを見たことがあるぐらいで、それを実際に触ったことがなかった。函南は、自作のプログラムと、パソコン通信で知り合った仲間たちのことを紹介してくれた。瀧本には函南の開発したというプログラムについては何もわからなかったが、彼の作ったゲームを見せてもらうと、率直に、すごいと思った。
 函南は、学校ではほとんど誰とも会話をしていなかったが、自分がいま考えているテーマについては、驚くほど饒舌に語った。瀧本は理解できる範囲でそれに付き合ったが、函南の思考についていけず、ただ聞き役にまわることもあった。函南は現実の友人としては瀧本しか話し相手がいなかったが、パソコン越しには多くの友人がいるようで、頻繁に議論をしていた。ちょうどその頃、インターネットが普及しつつあり、函南はパソコン通信からインターネットに関心の対象を移していた。
 インターネットには無限の可能性がある、と函南は語った。インターネットはネットワーク上で情報をやり取りするから、無数に張り巡らされたネットの回線を通じて、どういうところにでもアクセスすることができる。まだ回線が弱いから文字情報ぐらいしかやり取りできないけれど、通信速度がどんどん速くなっていけば、きっと革命的なことが起きる。まずは画像、次に動画がネットワーク上で共有できるようになって、最終的には、人間の脳をネットワークに繋ぐことができるようになる。
 人と人の思考がダイレクトに繋がったら、画期的なことが起きるはずだ、と彼は語った。瀧本は、熱心に語る函南を見ながら、本当にそんな世界が来るのだろうかと訝しんだ。ただ、そういう世界がきたらどういうことが起こるのだろう、と想像することは楽しかった。函南は、高校においては瀧本以外に友人はおらず、完全に孤立している。だが、彼はインターネットを通じて、世界と繋がっている。この場合、外に対して開かれていないのはいったいどちらなのだろうか、と瀧本は考えた。
 年が明けてから、受験生だった兄から、東京大学に合格した、との知らせが入った。兄は高校でも熱心に勉強を続けていたようだった。すっかり疎遠になっていたが、瀧本は合格の知らせを聞いてから、兄が新しく獲得した世界を見に行くために、兄に会いに行った。考えてみれば、兄の住む街に行くのははじめてで、実家以外で兄とゆっくり話すこともほとんどなかった。自分とはほとんど全く接点のない兄だった。兄の下宿先に行き、それから近くに評判のラーメン屋があるというのでそこまで歩いていった。どうだ、学校の勉強は、とすっかり声が低くなった兄が聞いてきた。まあ、なんとかやっているよ、と返すと、そうか、と興味があまりなさそうにラーメンを啜っていた。大学に行ったら、とりあえず結婚しようと思ってる、と兄は言った。瀧本は驚き、箸を止めた。兄は、いま付き合っている彼女と一緒に上京して、いずれはその人と結婚するつもりらしい。そんな先のことまで考えているのか、と瀧本は驚いたが、さらに兄は驚くことを言った。その人は有名な国会議員の娘なのだが、そこの私設秘書をアルバイトでやって人脈を作って、政治家になるつもりだ、と。将来の展望など何一つ考えていない瀧本にとって、そこまでの人生設計をしている兄の姿は、まるで別世界の人間に思えた。

(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。