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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 前編 #093

 時間をかけて、少しずつ菓子作りに挑戦していると、叔母が色々と料理を教えてくれるようになり、美穪子の生活には張りが出てきた。とてもささやかだが、確かに喜びが感じられる生活だった。いつか瀧本に食べさせてあげることができるかもしれない、と思った。
 美穪子はヨロヨロと立ち上がると、買い物に行かなければ、と思った。もう冷蔵庫にほとんど食材は残っていないはずだ。もうこんなに遅い時間になってしまっている。急いで立ち上がると、それだけで少しだけ心持ちが軽くなったような気がした。
 近所のスーパーで簡単な買い出しを済ませ、帰宅した。瀧本はもちろん家に居たが、声をかけても生返事しか返してくれなかった。安達凛子はもう帰宅していて、リビングにはいなかったが。瀧本によれば、江利子も自室にいるとのことだった。
 どうしよう。もう話し合いは終わったのだろうか。美穪子は冷蔵庫に買って来た食材を仕舞いながら、リビングのソファに腰掛けたままの瀧本を盗み見た。テレビが付けっぱなしになっていて、瀧本はそれを見ているが、目はちっとも画面を追いかけていない。瀧本に話しかける勇気は美穪子にはなかった。
 なるべく余計なことを考えないように努力しながら美穪子は夕食の支度をはじめることにした。自分の部屋からエプロンを取ってきて、キッチンに戻るとき、リビングの片隅に、見たことのない魚を見た。初めて来たときからこの家には水槽があったが、毎日目にしているものなので、違うものがあればすぐにわかる。はじめは見間違いかと思ったが、こんな魚は見たことがない。驚くほどの白い魚で、赤い目が特徴的だった。あまりにもつかみどころがなく、神々しささえ感じた。まるで、白い石を削り出した置物のような、そんなものを感じさせた。
 そしてその瞬間、理解した。安達凛子が持って来たのはこれなんだ、と。この「魚」を、瀧本に渡したのだ、と。だが、なんのために?
 だが、この魚がカギなんだ。この魚がすべての中心だ。
 安達凛子に対する、瀧本の不自然な態度は、すべてこの魚に集約されているような予感がした。
 これは、何かの取引の材料なのでは? という疑問がすぐに浮かんだ。だが、それ以上は思考が続かない。当たり前だ。情報が少なすぎる。
 美穪子はしばらく、魚のことも安達凛子のことも忘れ、料理をつくることに没頭した。江利子が部屋から出て来て、ビールを取り出し、自室に引っ込んで行ってしまった。
 不意に瀧本が立ち上がり、玄関のほうへ向かったので、美穪子はなんだろうと疑問に思った。誰か来たのだろうか。しかし、玄関のベルも何も鳴ってはいない。
 耳をすませると、かすかに瀧本の低い声が聞こえる。誰かと会話をしているようだ。だが、相手の声は聞こえない。
 心配になって出て行き、お客様ですか、と問いただすと、真っ青な顏をして、瀧本は何でも無い、と言った。
 それ以上言葉を重ねる勇気は美穪子にはなかった。

(つづく)


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