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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #111

 朝になると起き出さないわけにはいかず、美穪子は自室を出てリビングに向かう。コーヒーを淹れ、テレビをつけて眠気を取り払ったあと、朝食の支度をする。瀧本はまだ起きてこない。
 美穪子がキッチンで朝食の支度をしていると、江利子が起きてきたのがわかった。江利子の横顔を見た瞬間、自分と、彼女の分の弁当を作っていないことを思い出した。
「ごめん、江利ちゃん、お弁当、作ってないの」
 江利子は眠そうにあくびをかみ殺していたが、美穪子のその言葉を聞くと、少し驚いたような表情で美穪子を見た。
「え、ほんとに?」
「ごめん、うっかりしてて」弁解するように美穪子が言うと、いやそうじゃなくて、と江利子は顏の前で手を振ってみせた。「美穪ちゃんが寝坊するなんて珍しいね。いや、そんなことってあったっけ?」
「いや……」なんと返せばいいのかわからず、曖昧な返事を返すと、いいよもちろん、いつも作ってくれてありがとう、今日はどこかでお弁当でも買ってこうかな、と陽気な調子で江利子は言った。気を遣わせてしまって申し訳ないな、と美穪子は思った。
 江利子はそんな美穪子のことなどをほとんど気にせず、鼻歌まじりでコーヒーを淹れている。瀧本はまだ起きていない。瀧本は朝に弱いが、江利子は朝が一番元気だったな、とかそんな平和なことを考えていると、さっきまで「あちらの世界」でスピカと話していたことや、安達凛子と対峙していたことなどがまるで文字通りの「別世界」のように感じられた。
 江利子はコーヒーメーカーに入ったコーヒーを自分のマグカップに注ぎ入れている。彼女は今日も普通に出社して安達凛子と会うのだろうか。安達凛子は今日はどんな顏をして仕事をするのだろう。
 江利子はソファに座ってテレビを眺めながらコーヒーを啜っている。美穪子はベーコンとレタスと卵焼きをはさんだサンドイッチを作っていたのだが、ふと自分の手首に目をやってぎょっとした。左腕の手首のちょうど裏側に、絆創膏が貼ってあったからだ。そんなものを貼った覚えはどこにもない。だが、どことなく手首が痛むような感じはする。
 美穪子はおそるおそる、絆創膏を剥がしてみた。そして、確信した。「魚」に噛まれたあとがくっきりと残っていたからだ。「魚」に噛まれた歯のあとが二つ並んでくっきりと残っている。そして、その周りがまるで「魚」の鱗のように真っ白で、ざらついていた。その部分だけ、自分の皮膚ではないみたいだった。
 とっさに指でこすりつけたが、その白さは全く取れない。こすればこするほど、より白さが際立ち、自分の皮膚の色が取れていくような感じがした。美穪子はすぐに怖くなって、こするのをやめた。
 これを江利子に見られなかっただろうか。ちらっとリビングにいる江利子に目をやったが、気付いた様子はなさそうだ。何かの方法でこれは隠したほうがいいな、と美穪子は思った。
 顏を上げると、瀧本が起き出してきているのが見えた。玄関に行って、新聞を取り、彼もまたコーヒーを淹れにキッチンに入ってくる。おはよう、と彼は美穪子を見ずに挨拶をした。それは普段と全く同じ態度で、美穪子は咄嗟に反応することができなかった。少し遅れておはようございます、と言うと、彼は一瞬引っかかったような顏になったが、コーヒーを淹れたあとリビングに戻って行った。彼はいつも通りなのだが、何かが違う。それは、自分が敏感に反応しているせいだろうか、と美穪子は考えた。

(つづく)


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