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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 前編 #090

 安達凛子が二度目にクリニックに来たのは、それから数日後のことだった。安達凛子は前回と同じ時間を指定してやってきた。前回とはあきらかに様子が違っていた。彼女は今回は青色のチェックのワンピースに眼鏡をかけていて、まるで別人に見えた。化粧や服装が違うだけでなく、体全体から「生気」が削がれているような感じがした。前回の来訪のときに感じたような凛とした感じがなかった。
 彼女はキャスター付きのキャリーケースを引っ張っていた。そこに何が入っているのかはもちろんわからないが、なんの意味もなく引いてきたものだとは思えなかった。地味な服装からして、どこかに出かけていたというわけでもなさそうだ。美穪子は、これは瀧本に何かを預けにきたのかもしれない、と直感した。
 診察室に彼女を通したあと、中でどういう話し合いが行われているのかが気になって仕方がなかった。美穪子はパソコンのディスプレイを見つめながら、診察室の中で話し合われている内容について、つらつらと取り留めもなく思いを巡らせていた。
 三十分ほどで安達凛子は出て来た。そして、キャリーケースを引いていなかった。忘れてきたのだろうか? いや、まさか、そんなことはないだろう。渡してきたのだ。瀧本に。そして、それが、今日ここにきた理由なのだろう。
 待合室で話しかけてきたので、少しだけ会話をした。他愛のない会話だったが、こちらが緊張していることは伝わったに違いない。話しているうち、美穪子は安達凛子は信頼できる人物なのかもしれない、となんとなく感じた。だが、彼女は前回の来訪と比較すると明らかに様子がおかしく、心配になった。だが、そう気軽に相手の事情に立ち入るわけにもいかない。
 しばらくすると瀧本がキャリーケースを引いて診察室から出て来たので驚いたが、さらに瀧本は安達凛子を自宅に上げるというので、さらに驚いた。自分の知らないところで、何かが進行している、と怖くなった。美穪子はめまいがするほどの恐怖を感じたが、なんとか表面上は平静を保つことに成功した。
 さして親しそうな様子もなく、瀧本と安達凛子は上階へと消えていった。キャスター付きのキャリーケースの中には、何が入っているのだろう。あらゆる想像が美穪子の中を駆け巡る。どうしてもネガティブな想像ばかりしてしまう。どうしよう、どうしたらいいんだろう。美穪子は息苦しさを感じ、胸のあたりを抑えた。呼吸がおかしくなっている。背筋を正し、ゆっくりと息を吐いた。はじめは浅く、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えていく。息を吸えなくなるとパニックに近い状態になるが、息が吸えないのは、吐くことを忘れているからだ、という瀧本の言葉を思い出した。大事なのは、ゆっくりと息を吐くことだ。手慣れたその動作を何度か繰り返すと少し落ち着いてきたが、じわりと背中に張り付くような不安感は拭えなかった。
 呼吸は落ち着いたが、心臓が高鳴っている。むしろ、血が冷えていくのを感じる。どうしよう、どうしよう。気持ちが落ち着いても、不安で身体が強張り、うまく動くことができない。

(つづく)


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