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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #029

 美奈は取り押さえられてから支離滅裂な言動を繰り返しているようだった。美奈自身のことも気にはかかるが、凛子は函南社長とコンタクトが取れたのかどうかという点が最も気になった。
 『魚』のことを、凛子は何も知らない。これを持ってきた当の先輩は、もういない。だが、よく考えてみれば、この『魚』をここに先輩が持ってきたということ自体が不自然な感じがした。美奈が指摘したように、それはもともと函南社長が所有していたもので、それを譲り受けたものなのだろうか?
 だが、それだとなぜ自宅に持ち帰らなかったのか、という疑問が残る。やはり、函南社長が所有していたこの魚を、先輩が勝手に、つまり、盗み出したものなのだろうか。しかし、なぜ凛子の家に?
 問題は、この盗み出された可能性のある『魚』を、函南社長が取り戻しにくるかもしれない、という点にある。事情を知らなかったとはいえ、盗品の現物がここにある、ということになるのだ。警察が凛子の部屋に入って事情聴取をしたとき、凛子はリビングの片隅にある水槽のことが気になった。もし、警察官がこの魚の存在に気がついたら? しかし、水槽はどこにでもあるごく一般的なものだし、『魚』も小振りなごく普通の魚だったから、誰もそれが盗品であると思いはしなかっただろう。とりあえずその場はしのげたので、凛子はほっとした。
 美奈は普通の精神状態ではなくなっているが、もう函南社長とコンタクトは取ったのだろうか。函南社長が被害届を出し、美奈が凛子の部屋にそれがあったと証言していたら厄介なことになる。
 結局、翌日、凛子は恩澤に事情を話し、もう一日休みをもらった。こんなに欠勤が続くのははじめてだったが、恩澤は、梶原さんもそろそろひとりで仕事できるようになってきてるから大丈夫だよ、それよりも、大変だったね、と気をつかってくれた。細かい事情までは恩澤は知らないはずだが、気をつかってくれてやっぱりいい人だなと凛子は思った。
 夜は不安で一睡もできなかった。先輩との思い出がぐるぐるして、ベッドに入ってからも目を閉じるたびに、些細な思い出がひとつひとつ蘇り、そのたびに神経が高ぶった。それに、なんであんな嘘をついてしまったんだろう、と後悔する自分もいた。美奈の興奮状態がおさまり、『魚』のことを警察に話したら、警察はここに来るかもしれない。あるいは、既に函南社長が、盗難届を出しているかもしれない。
 だが、と凛子はかぶりを振る。これが盗品である証拠はない。函南社長から譲り受けた、あるいは購入したものかもしれない。あるいは、函南社長のものだということ自体、美奈がそう主張しているだけにすぎず、本当はもっと別のところから手に入れたものなのかもしれない。何しろ手元にある情報が少なすぎて、何も判断ができない。
 確かなことは、この『魚』がここにあるのは危険だ、ということだった。もともとこれがここにあるのは凛子の意思ではないのだから、盗品であるという自体に問題はないだろう。これをここに持ってきた先輩はすでに他界しているが、調べれば凛子に疑いがかかることはないはずだ。問題は、いまは『魚』を必要としてしまっている、ということだった。

(つづく)


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