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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #022

episode 2 安達凛子(後編)

 自分のマンションのエレベータをあがるたびに、そこが現実世界であるかどうかを確かめたくなる。もちろん、眼前に広がっている情景こそが現実だ。
 相変わらずうだるような暑さを溜め込んでいる自室に戻った凛子は、水槽で泳いでいる『魚』と向き合った。
 先輩から貰った『魚』。他に、先輩とやり取りした物はほとんどない。なにせ、自分が知り合った当初から、先輩には彼女がいて、事件が起きたときにはその彼女と結婚していたのだ。先輩の彼女である、美奈さんと先輩は同じ研究室に所属していたから、もちろん凛子は面識があった。だからこそ、モノとして残る贈り物なんてできるわけがない、と思った。
 葬式のときの美奈さんの顔を思い出す。少しやつれた顔に、精一杯の笑みを浮かべていた彼女。先輩を失って、これから、どうしていくのだろうか。先輩を失った喪失感は、自分の比ではないはずだ、と思った。
 そうか、と凛子は気がついた。先輩は美奈さんと結婚していた。つまり、同じ家に住んでいた。だから、この『魚』を自宅に置いておくことができなかったのではないだろうか。つまり、この『魚』は、誰かからもらったもので、それを美奈さんに見られたくないから、凛子に預けたのではないだろうか。そう考えると、今まであまり凛子に頼みごとをしてこなかった性格の先輩が、やや強引に、凛子の家に来てまでしてこの『魚』をこの部屋に置いていったことも、辻褄が合う。
 つまり、これがここにあることを知るのは、凛子だけなのかもしれないのだ。
 この『魚』の正体はなにか。そして、ふたたび『魚』を使って、先輩に会うことはできるのか。これらの情報を、どうにかして集めたい、と凛子は思った。
 自分の手首に目をやる。毎日、会社に出勤するたびに包帯を巻いて、帰ってくると解いている。袖口までカフスを留めているから目立たないとは思うが、毎日包帯を手首に巻いて出社する姿を、不自然に思われていないだろうか。特に、一緒に仕事を進めることの多い梶原がどう感じているかが気になる。
 表面上はふたりとも普段通りに振る舞っているが、この子は自分の考えていることを表に出さない子だ、と凛子は分析していた。この包帯に対して、彼女が何も言ってこないということに、むしろ凛子は気がかりを感じていた。
 『魚』に噛まれた手首の傷あとはくっきりと残っているのだが、問題は肌の色にあった。噛まれた場所を中心として、色が白く変色しているのだが、日を追うごとにその変色の度合いが強くなっている。白くなっている部分が弾性を失い、パサパサと硬くなってきている。まるで……、まるで、魚の鱗のように。
 凛子は、買い物に出かけることにした。普段、会社がある日は会社帰りに駅前のスーパーに寄って買い物をすませてしまうのだが、今日はうっかりしていて寄るのを忘れてしまった。窓から外を見ると、小雨がぱらついていた。
 エレベータを降り、エントランスから外に出る。マンションの自室から見えた感じでは小雨がぱらついている程度のように見えたが、実際に外に出てみるとなかなかの雨量だった。凛子は傘を開いて外に出た。

(つづく)


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