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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #025

「ちょっと着替えを持ってきます。とりあえず、中に入ってください」
 ばたばたと駆け出し、寝室からとりあえずの着替えをもってくる。美奈がラフな格好をしているので、そんな程度のものでいいだろう、と思った。美奈は黙って部屋に入ってきて、しばらく茫然自失としていた。とりあえずの着替えを手渡し、寝室で着替えてくるように促す。さっきまでの、美奈に対して抱いていた恐怖心もだいぶやわらいでいた。後ろ姿を見ながら、こんなに小柄な人だったっけ、とぼんやり思った。
 ひとまず落ち着いた美奈をダイニングの椅子に座らせ、コーヒーを淹れていると、「良い部屋ね、ここ」と美奈がしばしの沈黙をやぶった。「家賃、どれぐらいなの?」
「いえ、そんなに高くはないんですけど、私の給料からしたら、けっこう、カツカツで」と凛子は答える。
「でも駅から近いし、まだそんなに古くないし、それにアパートじゃなくてマンションでしょ? すごいなあ、こんなところに住んでるなんて」
 美奈は椅子から立ち上がり、大窓のほうに歩いていった。窓の外の景色を見ようとしているらしいが、その脇にある水槽の前で止まった。
「へえ、熱帯魚飼ってるんだ」
 水槽の中をのぞきこんでいる。水槽の中では、もちろん、『白い魚』がゆらゆらと泳いでいる。美奈は飽くことなくその魚を見つめている。
「きれいな魚ね。でも、この一匹だけ? 熱帯魚って、普通、何匹も一緒に飼うもんだって思っていたけれど。なんていう魚なの?」
「知り合いから譲ってもらったものなんですけど、あんまり熱帯魚には詳しくないんです。ただ、部屋に合うから、ってもらっただけで」
 まさか名前すら知らない、ということは言えず、少し話題をそらして言った。美奈はまだ魚に注視している。
「そっかあ。でも、熱帯魚飼うのって、最近流行ってるのかなぁ。『あの人』の……」と言って美奈は言葉を切った。「あの人」、というのは、言うまでもなく、先輩のことだろう。「……『あの人』の社長さんが、そういえばこんな魚を飼ってたな。会社に行った時、函南社長の部屋に、大きな水槽があったの」
 凛子は美奈の言う「函南社長」のことを思い出した。新進気鋭の、ITベンチャーの社長。携帯ゲームアプリから事業をスタートさせ、いまではネットメディア、金融、SNSなど、多方面で成功している会社で、函南社長自身もカリスマ経営者として知名度は高い。凛子は彼らの会社のゲームをしたことはないが、SNSサービスは日常的に使っている。
 函南社長は、ブログやSNSなどを積極的に活用し、経営者としての自分自身を前面に押し出す経営をしている。凛子も何度か、話題になった彼のブログを読んだことがあるが、博識で、いろいろな知見に富んでおり、さすがにカリスマ経営者と呼ばれるだけのことはあるな、と感心したことがある。先輩は、学生時代に函南社長と知り合い、学生時代からアルバイトとして会社にはよく出入りしていたそうだ。そのまま、大学を出ると、函南社長の経営するカンナミコーポレーションに入社した。

(つづく)


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