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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 前編 #087


episode5 川嶋美穪子(前編)

 瀧本の様子がおかしいと感じたのは、安達凛子という女性がクリニックに来てからだった。初回から予約を希望してくるクライアントは多いが、予約は二回目からしかできないことになっている。ただ、安達凛子は江利子の紹介ということだったので、一応、瀧本に確認をした。すると、驚くべきことに瀧本は予約をとることを許可したばかりか、何時に来ても良いと言った。江利子の紹介というよりは、まるで瀧本が安達凛子の来訪を事前に知っていたかのようだった。もっとも、江利子の知り合いだというぐらいなのだから、瀧本と安達凛子が知り合いだったとしても不自然なことではない。しかし、クリニックに「診察」の名目で連絡を入れてきたことからみて、知り合いというのは少しおかしかった。
 そこまで考えたが、だからといって詮索をするようなことはしたくなかった。これは仕事なのだ。当たり前だが瀧本には瀧本のプライバシーがある。なんらかの事情で、安達凛子からのコンタクトを待っていて、それがいま来たということなのだろう、と結論づけた。もっとも、そのときはちょっと気になった程度で、特別そのことに関して違和感を抱いたわけではなかった。
 ただ、安達凛子が当日の診察を希望し、しかも勤務先から直接来ると言ったので、少し驚いた。かなり切迫している状況なのだろうか。そこで、美穪子は違和感の正体に気が付いた。安達凛子の声が、あまりにもしっかりとしていたのだ。精神的な不安定さを全く感じさせない声のトーンと、ボリュームだった。はじめてのクリニックに電話するということで、多少は緊張しているようだったが、聞き取りやすい声ではっきりと発声していた。受付の電話を無数に受けているのでわかるのだが、通常は、こんなにしっかりとした声で電話をしてくる人はあまりいない。美穪子は、声のトーンからその人の精神状態を見抜くのが得意だった。
 もしかすると、接客業に就いている人間なのかもしれないな、とぼんやりと考えた。そこで美穪子は、江利子の新しい職場が旅行代理店であることを思い出し、安達凛子はその旅行代理店の同僚なのではないか、と推測した。とはいえ、そのこと自体に問題があるわけではない。江利子が、自分の同僚に、自分の叔父のクリニックを紹介した、それだけのことだ。美穪子はそこまで考えて、またパソコンのディスプレイに目を落とした。だが、安達凛子とは一体どういう人物なのだろうという好奇心を抑えることができず、ディスプレイに映る文字がまるで頭に入ってこなかった。
 江利子の友人。凛とした声。若い女性。旅行代理店勤務。美穪子は、それを聞いただけで、気持ちが高揚し、想像を張り巡らせた。
 髪の色は?
 職場での仕事の様子は?
 同僚との関係は?
 両親の人柄は?
 好きなファッションは?
 好きな映画は?
 小学校の頃、いちばん好きだった遊びは?
 次々にわき上がる疑問が渦を巻いた。いけない、とパソコンの画面にピントを合わせる。このまま妄想の世界に入ってしまうところだった。

(つづく)


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