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「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 前編 #059

 すっかり変わってしまった兄は説教がましいことは何も言わなかったが、ふと、付け加えるように、かんなの話題を持ち出した。伊崎かんな、覚えているか。瀧本が頷くと、あいつ、学校を中退して、変な宗教コミュニティに入ったんだけど、知ってるよな。そのコミュニティに実際に行ったということは瀧本は話さなかった。そのコミュニティだが、内部で色々と抗争があって、最近、解散したらしい。兄はあまり興味もなさそうにそう言った。やっぱり、革命みたいなことをしても、いまの世の中ではうまくいかない、学生運動のような幼稚な真似をしていた世代だって、結局は何もできなかったじゃないか。俺は国家の中枢に入って、もっと大きなものを見るつもりだ。こんな田舎に居たんじゃ、何も見えないからな。
 兄との会話はどこまでもぎくしゃくとして、まるで弾まなかった。何より、兄という感じが全くしなかった。結局、小一時間ほどで帰路についた。かんなの所属していたコミュニティが崩壊した、ということがわかっただけだった。かんなは一体どこで何をしているのだろうか。ただ、あの奇妙なコミュニティから開放されたというだけで、どこか安心するような心持ちになった。彼女を探そう、と少し考えたが、どうやって探せばいいのかもわからなかった。

 月日はあっという間に過ぎた。瀧本は高校では陸上部に入り、長距離走の選手として練習をしていた。たまに練習をさぼって、函南の家に遊びに行った。同時に、同じ陸上部の女子で彼女もできて、忙しい日々を送っていた。最初の一年はあっという間に過ぎ去った。
 ある日、事件は起こった。その日は朝から、かすかな心のざわめきを感じていた。朝のニュースで、東京の地下鉄で異臭騒ぎがあった、との報道を見た。テレビの画面は混乱していて、何が起きたのか判然としない。そのまま、何が起きたのかよくわからないまま学校に行くと、教室は異臭騒ぎの話題で持ち切りだった。ガスパイプが破損したのが原因だと主張する者もいれば、外国からのテロ攻撃だと主張する者もいた。瀧本は、それが東京の地下鉄で起きた、という点が気になった。しかも、事件は複数カ所で起きているようで、その中には兄が住もうとしているエリアも含まれていた。
 担任の教師が教室に入ってくると、教室は静かになり、何事もなかったかのように授業がはじまった。だが、不意に、学年主任の教師が教室のドアを開け、瀧本に、職員室に来るように、と告げた。職員室に向かう途中の廊下で、落ち着け、と学年主任は言った。君のお母さんから電話が入っている、大事ではないと思うが、とりあえず落ち着いて話を聞くんだ。抑えた声で、学年主任は瀧本にそう告げた。
 瀧本の悪い予感は的中した。母親は押し殺したような声で、お兄ちゃんが、と言った。それだけで、瀧本には何が起こっているのかがわかった。大丈夫、お母さん、落ち着いて。母親が取り乱しているのが電話越しにわかると、瀧本はなぜか自分の心をコントロールすることができた。先ほどまでは、自分自身の心のざわめきを押さえつけられなかったが、母親が取り乱しているのと対称的に、自分の心をコントロールすることができた。しばらく沈黙が続いたが、そうね、取り乱していても何も変わらないものね、と落ち着きを取り戻した声で母親は言った。これから東京に行こう、と瀧本は冷静に言った。

(つづく)


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