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「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 前編 #060

 母親と合流し、その日の午後に兄のいる病院に着いた。兄が事件に巻き込まれた場所からはかなり離れた病院だったが、周囲の病院は患者が大量に搬送されたため、周囲の病院に手当たり次第に振り分けられているということだった。病院名はわかったが、兄の居場所がわからず、母親と探しまわった。兄は病院の二階の廊下のベンチに腰掛け、ぼうっと壁を眺めていた。目の焦点が合っておらず、瀧本は一瞬、誰だかわからなかった。
 なんだ来たのか、わざわざ悪かったな、兄は焦点の定まらない目でそう言った。大丈夫なのか、と瀧本が言うと、大丈夫だからこんな廊下のベンチで放置されてるんだろ、と気怠げに言った。あたりは満員列車の中のように人でごった返しており、看護師が間を縫うようにせわしなく往来していた。まるで戦場だった。中東の、内戦の絶えない地域にいるような錯覚を覚えた。比較的軽度な症状の人が廊下のベンチに座らされているのだろう、と瀧本は思った。ということは、兄は軽度と診断されたことになる。
 母は兄を前にしてもなかなか言葉が出てこないようだった。兄は母の肩にそっと手を置き、もう大丈夫だから、達郎を連れて帰ってくれ。兄はきっぱりとした口調でそう言った。
 そうはいってもすぐに帰るわけにもいかず、医師から話を聞いてから帰ることにした。ベンチの空いた席で時間が過ぎるのをただ待っているあいだ、瀧本は、隣の席の男性の様子がおかしいことに気がついた。俯いて、肩が小刻みに震えている。兄が母に対してそうしたように、肩に手を置いて慰めようかと咄嗟に思ったが、見ず知らずの人にすることではない、と躊躇した。だが、隣の席の人が恐怖のために震えていることは明らかだった。
 瀧本は思い切って、大丈夫ですか、と隣の席の人に話しかけた。しばらく反応はなかったが、その男性はぼんやりとした顏をこちらに向けた。兄と同じく、焦点の合っていない、弛緩した目つきだった。しばらくぼんやりとした表情でこちらを眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。私は、私は、私は、私は、これから私はどうしたらいいんですか、私はこれからどうなるんでしょうか、そんなことを男性はうわごとのように繰り返した。男性は混乱しているのか、取り留めのないことを矢継ぎ早に話し出した。
 男性は三十代ぐらいに見えたが、ひょっとしたらもっと若く、二十代ぐらいかもしれない、と瀧本は思った。まだ事件現場の興奮から脱しきれないでいて、混乱している。瀧本は、相手の言うことに相づちを打ち、ときおり、相手の話を促すような言葉をかけた。そして、必要なときに、必要なタイミングで、大丈夫ですよ、安心してください、と優しい声をかけた。
 大丈夫である根拠などもちろん何もなかったが、そういう言葉をかけずにはいられなかった。話が具体的なものにおよぶと、瀧本の干渉できる範囲を超えているため、聞き役に徹した。こうして、相手の心の膿みを少しずつ押し出し、出し切るように、話を聞き終えるときには、相手の混乱も多少はおさまっていた。

(つづく)


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