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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #124

「どうやってそれをやったの? あの『魚』は、私たちが持っていたはずだわ」
「『魚』……。ボクはオフィーリアって呼んでいたのだけれどね。あれは、君たちが持っていた一匹だけじゃない、他にもたくさんいたんだ。いろんな人に実験台になってもらった」
「実験台って……」
「厳密にいうと、ここはボクの意識の中だよ。いまここにいる空間はね。現実世界とあまり変わらないだろう? ボクは事業を起こして、会社を作った。いまいるこの空間は、ボクが現実世界で獲得したものを、意識の中に再現しただけだ。川嶋さん、キミが乗って来たあのスポーツカーもね、ちゃんと元の世界にあるものだ。乗り心地も悪くなかっただろう?」
「…………」
「あの魚、『オフィーリア』は、古代の魚だ。強烈な幻覚をもたらす神経毒を持っていて、知性ある生物がそれを摂取すると、脳の中に新しい世界の幻覚を生み出す。中東の科学者たちがそれを極秘に研究し、何世代にもわたって交配を繰り返し、改良を重ねてきたんだ。ボクはその話を聞きつけて、それを買い取った。五十匹ね。もちろん、はじめは半信半疑だったけれど、この作用は本物だと実感した。『オフィーリア』には、現代科学ではまだ解明し切れていない、未知の幻覚作用がある」
 函南は組んでいた足を組み替えた。高級そうな革靴が一瞬だけ、月明かりに反射して鈍く光った。
「『オフィーリア』がなぜ、そんな神経毒を持つに至ったのか。それは諸説ある。外敵に幻覚を見させ、自分たちの身を守るためなのか。色々な話を聞いたよ。でも誰も理由なんてわからないんだ。だいたい、進化というのは、ボクらは『自然の選択だ』とか、『適者生存だ』という風に解釈しているけれど、実際にはそんなに単純なものじゃない。たまたま、そういう性質をもつ生き物が生まれて、その能力が残った。それだけだ。
『オフィーリア』は、哲学的な問いをボクらにもたらした。『オフィーリア』の幻覚作用で、ボクらの意識は分断される。でも、ここが『本当の世界』ではないと、どうやって証明できるだろう?
 だいたい、脳だって頭蓋骨の中の暗闇の中にいて、水の中に浮いているただの神経ニューロンの塊にすぎない。自分の脳を直接見たことのある人間はいないし、いたとしてもその中で何が起きているのかなんてわかりゃしない。現実世界そのものが、幻覚みたいなものなんじゃないか。目や耳、神経細胞がなければ、ボクらは世界を認識することすらできない。そんな不確かな『現実』が、いったいどれほどの価値のあるものなのか?」
 函南は腕を身体の前に伸ばし、身体全体をストレッチした。
「これがあなたのやりたかったことなの?」
「どうだろう……。もう飽きちゃった、っていうのが正直なところかな。これからどんどん、あらゆる人がこの世界に入ってくるだろう。人が増えれば、ルールも増える。結果、世界は均衡し、安定してくる。もう既に、この有様だからね。もうゲームマスターを気取ることもできないよ。ボクができるのはせいぜい、意識を分断したり繋げたりすることぐらいだから」
「あのスピカって人を使って?」
「そう、あの少年を使って。彼が何者なのかは、ボクもよくわかっていない。ボクが最初にこの世界に来た時から、ここにいたんだ。ボクは他のあらゆる人がここに来られるようにと彼と約束した。その代わり、意識を繋ぐタイミングはボクに任せるから、と。実際、あの魚を五十匹も手に入れて、それを実験に使える人間なんてそうはいない。そういう意味では、ボクは適任だったのかもしれない。
 現実世界では、ボクはそんな経験ばかりしている。どんなに革新的なものを作っても、やがてそれが当たり前になっていき、真新しさは失われていく。人がたくさんいればいるほど、確かな秩序が必要とされる。それが当たり前になったとたん、面白さはなくなっていくんだ」

(つづく)


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