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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #115

 自分と全く同じだ、と美穪子は思った。自分と同じように、安達凛子の腕は白く変色している。
「確かに、『魚』を使うな、とは言わなかったけれど……」と安達凛子は呟いた。「そうなのね。じゃあ、瀧本先生も、そうなのよね、きっと」
「違うんです。その、なんというか、偶然、はずみで、その」
「別に責めてるわけじゃないわ。別にいいの。もともと、あたしだって似たような立場なんだし。ただ、私は、この『魚』を返してもらいたいだけなの」
 魚を返してしまっても構わないのではないか、と美穪子は一瞬思った。だが、魚を渡したら最後、二度と触れることができないような気もする。せめて、あともう一回だけ。あともう一回だけでいいのだ、魚の毒を体内に取り込められたら……。
 それを安達凛子に提案してみようかと考えた。自分が望んでいるのは、あともう一度「魚」の毒を使って「あちら側」の世界に行くことで、それさえさせて貰えれば、あとはどうなっても構わないと。
 ただ、向こうの世界に行くだけでいい。もうそれだけの覚悟はできている。
「安達さん……」
「え?」
「あ……」
 安達凛子は、自分の願いを聞き入れてくれるだろうか? 第一、「魚」の毒があとどれぐらい持つものなのか、わからない。もしかすると、「魚」の毒があと一回分しかない可能性だってあるのだ。
 だとしたら、答えはひとつだ。渡すわけにはいかない、と美穪子は覚悟を決めた。これは自分のものだ。絶対に、渡すわけにはいかない。
 気付いたら、美穪子は安達凛子を力まかせに両手で突き飛ばしていた。安達凛子は受け身を取らずに、そのままよろめいて、背後の棚にぶつかった。ガラス棚の中には食器があり、扉が開いて皿がこぼれ、派手な音を立てて割れた。安達凛子は呆然とした表情で美穪子を見た。
 一瞬遅れて、自分がいま何をしたのかを理解した。いつもそうだった。行動した直後に、自分のしたことの大きさを自覚するのだ。自分を押さえつけられないのではなく、動かそうという認識を持つ前に身体が動いてしまう。美穪子は泣き叫びたくなった。声を出そう、どんな声でもいいから、声を出そうと思ったが、喉の奥が掠れるばかりで、代わりに涙で視界が滲んだ。凛子の姿も見えなくなる。少し遅れて、雄叫びのような慟哭が喉の奥から漏れてくる。泣いている、自分はいま泣いているのだと思った。子どものように泣き叫びながら、その場にうずくまった。
 火花が散った。頬に鈍い衝撃を感じた。凛子に殴られたのだ、とすぐに気付いた。それで目が醒めたような感じがした。美穪子はすぐに立ち上がり、凛子に向かっていった。人とこんなふうに争うのは初めてのことだった。凛子の服に掴みかかり、めちゃくちゃにしてやろうと思った。凛子も負けじと美穪子の身体に掴みかかってきて、もつれて、組み合ったまま、ふたりとも倒れた。
 もう、どうなったっていい。既にこの世に未練はない。いつ死んだっていい。だって、あたしには何もないから。空っぽだから。空洞だから。昔いたあの部屋の中のように、ひんやりとして、真っ暗で、何もないから。
 自分が欲しいものなんて何もない、ただ、瀧本に生きていて欲しい。願いなんてたったひとつ、それだけしかないのに。

(つづく)


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