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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #113

 もちろん、それはそうだろう。瀧本が二人いるわけではない。ふたりとも同じ人間なのだ。
 だが、片や、美穪子に自分の死を宣告し、美穪子の中で永遠に生き続けると宣言したが、片や、そうはなっていない。同じ人間で、ほとんど同じ記憶を共有しているにも関わらず、そこには大きな断絶がある。まるで、境界線のギリギリのところの、こちら側とあちら側に瀧本が存在しているような感じがするのだった。
 そう考えると、自室へと消えていった瀧本が、まるで自分の知らない人になってしまったかのような錯覚に襲われ、美穪子は全身に鳥肌が立つのを感じた。
 あの人は、一体誰なのだろう?

 二日が過ぎた。結局、美穪子は体調を崩し、仕事を休んだ。瀧本に手当てをしてもらってからしばらくするとふたたび傷口が痛みだした。時折、刺すような、鋭利な痛みが襲ってきて、頭の中が痺れたようになる。だが、そのことは瀧本には言わなかった。ただ、だるいからしばらく休ませて欲しい、とだけ告げた。 
 まどろみながら、美穪子は昔のことをぼんやりと思い出していた。リビングには、変わらず「魚」がゆらゆらと泳いでいる。日中、美穪子はヨロヨロとリビングまで歩いて行くと、飽くまで「魚」を見つめ続けた。「魚」は、ただゆらゆらと水槽の底で揺れているばかりだ。
 瀧本は、自分が死んでも、美穪子の中で生き続けると言った。だが、もちろん、死んでしまえば、人はいなくなってしまう。瀧本が生き続けると言ったのは、あくまでも美穪子の心の中での話だ。当たり前だが、瀧本は死ぬということだ。そして、当の瀧本は、美穪子に自分の死を明かしたということ自体を知らない。
 自分は、これからどうすれば良いのだろうか。ふたたび、「魚」の毒を利用して、「向こう側」の世界に行き、そこで瀧本と暮らせばいいのだろうか。その場合、現実世界にあるものすべてを捨てることになる。
 しかし、その場合、現実世界の瀧本は一体どうなるのだろう?
 瀧本が死ぬ瞬間、私は、そばにいてあげることができない……。
 瀧本は……。
 死んでしまうのだから……。
 関係ないことなのかもしれない……。
 美穪子はそういった取り留めのないことを考えながら、再び長い眠りについた。すべてを正直に瀧本に打ち明けることも考えた。だが、どう切り出せばいいのかもわからなかった。
 ときどき、左手首に貼ってある絆創膏を剥がし、傷の状態を確認した。「魚」の牙が刺さった傷はすぐにふさがったが、皮膚が剥がれたような跡があった。白くなっているのは相変わらずだが、少し皮膚が硬くなっているような感じがする。まるで、魚の鱗みたいだ、と美穪子は思った。
 まどろみからふと目覚めたとき、チャイムの音が鳴った。遮光カーテンを閉めているせいで、時間の感覚がない。だがそれも、夢の中で鳴っているのか、現実世界で鳴っているのか、区別がつかない。しばらく待っていると、再度ベルが鳴った。郵便でも届いたのだろうか。ベッドから降りて部屋から出ると、天井がぐるぐる回っているような感じがした。そのまま、壁に手をつきながら玄関に向かう。

(つづく)


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