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「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 後編 #080

 瀧本は美穪子のそばに寄った。白雪姫のように目を瞑っているその顔は、間違いなく美穪子だった。自分が魚に噛まれる瞬間、偶然、美穪子に目撃され、美穪子も『魚』に噛まれたのだ。
 そんなことが……。
 うかつだった、と瀧本はすぐに後悔した。たとえ『魚』の毒が短時間で消えるものであったにしても、もっと人目に付かないところでやるべきだった。明らかに冷静さを欠いていた。だが、もう後悔しても遅い。これからどうするかを考えなければならない。
 美穪子、と再度呼びかけると、かすかに反応があった。通常の医療対処では、上体を起こしたり、揺さぶったりすることはしない。精神世界でどのように対処するのが正しいのかはわかりようがないが、ここでは誰にも頼ることはできないのだから、呼びかけるしかない。
 じきに美穪子は目を覚ました。目を見開き、先生、と呟いた。
「ここは……?」
「リビングだよ」
「そうだ……あたし、先生を……」
「起きれるか?」
「先生……怒ってます?」
「全然」
 正直なところ、どういう感情もわき起こらなかった。ただひとつ、明確な落ち度として、自宅のリビングで魚に噛まれた、ということが挙げられる。零時ならば二人とも寝ている時間帯だが、そこに美穪子や江利子が来ることを想定していなかった。
「手首は大丈夫?」
「手首?」
「噛まれてない?」
「噛まれる? 何にですか?」
 美穪子の手を取って確認してみる。手首に瀧本と同じような、噛まれた跡があった。ということは、瀧本と同じようにこちら側に「来てしまった」のだろう。つまり、美穪子は瀧本の幻覚ではなく、明確にこちら側の世界にいる、ということだ。
「先生、誰か倒れてます」
 美穪子が隣の空間を指差して言う。だが、そこには何も無い。瀧本には見ることができない。
「誰が?」
「女の人です。私と同じぐらいの」
「それは、君自身じゃないの?」
「私自身?」
「そう、君そのものじゃない?」
 美穪子はおそるおそるといった感じで、瀧本には見えない空間に手を差し伸べる。その瞬間、あたりの空間が大きな悲鳴で包まれた。美穪子は汚いものでも触れたかのように手を離すと、部屋の壁まで飛び退いた。
「やっぱり、君自身だったか」
「な、なんなんですか、これ」
「その人は、君自身だよ。僕らがいるのは、幻の世界。ここは夢の世界なんだ」
「夢の世界? あたし、瀧本先生の夢を見ているの?」
「そういうことになるね」
 美穪子はすぐに落ち着きを取り戻した。例え精神世界の中とはいえ、一度興奮状態になってからこれだけすぐに落ち着きを取り戻すのは以前では考えられなかったことだ。瀧本は心の中で安堵したが、同時に途方に暮れてもいた。一体、これからどうすればいいのだろうか。
 スピカと名乗る少年は、零時ちょうどに『魚』を使え、という函南の伝言を伝えてきた。魚の毒がまわってからどれほどの時間が経っているかわからないが、もう時間に近いはずだ。これから一体何が起こるのだろうか。

(つづく)


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