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「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 前編 #061

 瀧本は、混乱し、興奮している相手に対し、どのように対応すれば相手が落ち着きを取り戻すのかが手に取るようにわかった。まるで、激しく揺れている振り子を、どのようにすれば勢いを相殺することができるのかがわかるように、感覚として、そういうことがわかるのだった。
 男性が落ち着いて、ベンチに座りながら浅い眠りについたとき、瀧本は混乱している別の患者のところに行き、また同じように相手と会話をした。瀧本がしていたことはただ相手と会話することだけだったが、結果として、相手は落ち着きを取り戻していった。瀧本は、そのとき自分に、相手の話を傾聴し、心を落ち着かせる効果が自分の声にあることを知った。そして、それを適切なタイミングで発することができることも知った。
 その後、医師と面談をしたが、現状では症状に関してわからないことが多く、今後どうなるということもはっきりとはいえない、と言われた。母はそのことに少なからずショックを覚えたようだが、瀧本は兄なら大丈夫だろう、と思った。これも何も根拠はなかった。周囲の人には誰も外的損傷はないので、安心したのかもしれない。例えば、戦争のドキュメンタリのような、爆弾で手足を失ったような人々と比較するとインパクトが薄かった。我ながら薄情だなと思ったが、だからといってどうすることもできない。母親は東京に残ると言い放ち、瀧本はひとりで地元に帰った。
 何日かが過ぎると、事件の被害の全容も大きく報道されるようになった。既に死者が何名も出ているらしく、主犯は、近頃世間を騒がせていたあるカルト教団だということがわかった。その教団の名前は聞いたことがあった。瀧本はほとんどテレビを見ないが、よくテレビに出演し、若者の支持を集めていた教団だった。瀧本は、かんなのいたコミュニティがそれに関わっていたわけではないことに安堵したが、同時に、かすかな心のざわめきを感じた。
 瀧本くん、お兄さん、大丈夫だった? と函南が学校で話しかけてきた。ありがとう、とりあえずは問題なかったよ、と瀧本は答える。瀧本個人のことについて函南が関心を持つことは珍しかった。函南は事件のことを知りたがっていた。瀧本は、自分の兄のことを思い出すのが嫌で、しばらくはぐらかしていた。函南は、事件の背景について、瀧本よりもよほど詳しい情報を持っていた。本当に実行するなんて凄いよねえ、国家の転覆を目論んでいたんだよ、函南は嬉々としてそういうことを語り始めた。教室でそういうことを言い始めたので、瀧本はここではまずいと思い、函南を校舎の屋上に連れ出した。
 函南、何がそんなに気になるのか知らないが、あんまり変なことを教室で言うなよ。函南は黙って首を振り、わかってないな瀧本くんは、と言った。いまの社会はとっくに無理がきてるんだよ。資本主義社会が行くところまで行けば、先にあるのは破綻だけだ。発想を飛躍させる必要がある。いまある体勢を転覆させるか、あるいは、新しい思想を打ち出して、新しい何かをはじめるか、だ。

(つづく)


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