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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #024

 美奈と面と向かって会話をしたことはほとんどなかった、ということに気が付いた。凛子と美奈のあいだには、常に先輩がいたのだ。たとえば仲間内で飲みに行ったりするとき、先輩がいて美奈がいないことはあっても、その逆はなかった。ましてや、美奈とふたりきりで話をする機会も、そうそうなかった。あくまでも、凛子のなかでは、美奈の存在は「仲間内のひとり」という認識にすぎず、一対一で何かを話す機会も必要性もなかったのだ。何をどういうふうに切り出せばいいのかわからなかった。ましてや、こんな普通ではない様子の美奈をどう扱えばいいのか、凛子は途方に暮れていた。
「美奈さん、びしょ濡れですね」
「ああ、いいの、大丈夫。勝手に乾くから」
「傘とかも持ってきてないんですよね?」
「大丈夫だから、ほんと」
 あまり意味のないやり取りを交わしながら、ここがマンションのエントランスであるということが気にかかっていた。こんなところを、誰か近所の人に見られるのは嫌だな、と思った。
 だが、こんな状態の美奈を追い返すことはできるだろうか? だが、ここが自宅でまだよかった、とほっとしている自分もいた。もし、客として店舗に来られたら、それこそ対応できなくなっていただろう。
 あまりにも美奈がびしょ濡れで、しかもそれをどうにかする気がなさそうだったので、凛子は自分の部屋からタオルを持ってこようかと思ったが、それこそマンションのエントランスに長時間、美奈を待たせることになるし、なにより、彼女がそこからどういう行動に出るか予測がつかない。全く気はすすまないが、自分の部屋に連れて行くしかないのだろうか、と覚悟をきめた。
「ここにいるのもなんですし、わたしの部屋までいきましょうか?」
 そう提案すると、美奈は「いいの、いいの、そんな」と言ったが、帰る気配がないので、目的があってここに来たのは明らかだった。こんなやり取りを続けているよりも、さっさと部屋で話を聞いたほうがはやいかな、と凛子は判断した。
 それに、と凛子は思った。先輩が美奈から隠したかった、あの『魚』について、何かわかるかもしれない。先輩の意図と反することをするのは気が引けるが、なにせ、もう先輩はいないのだ。いまは、あの『魚』にまつわる情報だったら、なるべく集めたい。これは願ってもない状況だ、と凛子は思った。
 自分の部屋に着き、ドアを開ける。先ほど帰宅した際に空調をつけておいていたので、もう部屋はだいぶ涼しくなっていた。
「美奈さん、ちょっと待ってください。タオル持ってきますから」
 そう言って、玄関脇の脱衣所からバスタオルを取ってきて、美奈に手渡した。美奈は黙ってそれを受け取る。下駄箱から、来客用のスリッパも出した。
 バスタオルで顔や手をぬぐった美奈から、タオルを受け取った。着替えも出したほうがいいだろうか、と思ったが、こちらから頼んだわけでもなく、突然押し掛けてきたこの来訪者に対してそこまでするものだろうか、と逡巡した。そこではじめて、美奈が訪ねてきた、という事実を、迷惑だ、と感じている自分をはっきりと自覚した。美奈の様子がおかしいことは確かだったが、だからといって、こんな気持ちで普通は迎えるものだろうか、と思った。大した親交はなかったものの、大学時代は何度も何度も顔を合わせていたというのに。同じ仲間グループのうちのひとりだったというのに。自分は薄情な人間なのだろうか。

(つづく)


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