見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #011

 ゆっくりと影がベランダの床を指さす。目をむけると、そこに、先輩から貰った白い魚が、ぐったりと横たわっていた。
 凛子はあわててベランダに駆け寄り、大窓をあける。そして、白い魚を、両手で拾い上げた。
 鱗の感触が指に伝わる。魚はぐったりしたままで、触れても微動だにしない。死んでしまったのだろうか。振り返ると、影はじっとこちらを見つめている。いや、影に顔があるわけではないから、見つめられているかどうかはわからないが、見つめられているような感じがする。
 凛子は白い魚をもったまま、部屋の中へ戻った。生きているかどうかはわからないが、水槽に戻さなければ、と思った。
 水槽の中にそっと白い魚を入れる。
 魚は、ぐったりとしたまま、水の中に沈んでいき、そして、身をわずかにふるわせて、体勢を立て直した。どうやら、死んではいなかったらしい。
 その瞬間、パチン、と火花が散ったような感覚がした。
 頭がぐらぐらと揺れるような、不意に脳髄を殴打されたような、そんな鈍い衝撃。
 貧血で立ちくらみがしたのか、と思った。一瞬、気を失っていたのかもしれない。横を見ると、さっきまでいたはずの影はもういない。
 部屋を見渡すと、さっきまでの空間と、温度が違うような気がした。ここの空間には、自分ひとりしかいない。水槽では、白い魚がゆらゆらと泳いでいる。
 ダイニングに目をやると、コーヒーマグはなく、奥のコーヒーメーカーにも、コーヒーはなかった。
 戻って来たんだ、と凛子は思った。唐突に、そしてあっけなく。

 今までと変わらない日常がやってきた。あの日、部屋で目覚めた凛子は、自分の身体に異常がないことを確かめると、すぐに着替えてベッドに潜りこんだが、色々なことが頭をめぐり、一睡もできなかった。
 翌朝、会社に行く身支度をしているときに、異変に気が付いた。自分の手首に、魚に噛まれたあとがくっきりと赤く残っていて、その周り、腕の裏側の部分が、不自然に白く変色していたのだ。
 あまりにもくっきりとあとが残っているのが気になって、少し迷ったが包帯を巻いて出社することにした。何か言われれば、お湯をこぼして火傷をした、ぐらいの言い訳をするつもりだった。
 会社に着くと、気持ちが切り替わった。ロッカールームで制服に着替える頃には、すっかり昨日のことなど忘れてしまっていた。
 凛子の勤めている旅行代理店は、店舗によって売上げが大きく違う。一番売上があるのは、ターミナル駅の構内にある店舗で、アクセスが良いので一見の客もそこに足を運ぶことが多い。一方、凛子が勤めている店舗は、駅からのアクセスが悪いわけではないが、住宅街の中に位置していて、雰囲気は落ち着いている。売上げだけを見るなら、人の集まりやすい駅中のほうが断然有利だが、住宅地の近くのほうがリピート客を掴みやすい。実際、常連の客の顔はほとんど憶えている。
 月曜日の朝はたいてい閑散としているため、事務処理に集中できる。お客さんが増えてくるのは午後からが多い。凛子はカウンターで、端末に情報を打ち込みながら、隣の席に座っている梶原に目をやった。彼女は机の下で、こっそりと携帯をいじっていて、注意しようかと思ったが、短い時間であれば携帯をいじるなんて誰でもやっていることだし、緊急の用事かもしれない、と思い留まった。だが、お客さんがやってきたらすぐに接客をしなければならない。

(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。