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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #116

「気は済んだ?」
 気付くと、美穪子は仰向けになっていて、安達凛子が馬乗りになり、美穪子の両手首を手で押さえつけていた。美穪子は汗だくで、安達凛子も肩で息をしている。美穪子は全く身動きが取れない。物理的に押さえつけられているだけでなく、金縛りにあったように身体が強張っている。
「あたしはね、そんなに変なことを要求してるわけじゃないの。ただ、預けたものを返してもらいたいだけ。先に手を出したのはそっちだけど、まあ、それは、いいわ、こっちだって突然押し掛けたわけだし、確かに非常識よね、でもね、こんなに取っ組み合いをする必要は、ない、と思うんだけどな」
「殺して!」
 美穪子は叫んだ。身動きが取れないから、叫ぶしかない。驚く安達凛子を見据え、もう一度、殺して、と叫んだ。安達凛子の目の動きが止まる。
「は?」
「もう殺して。あたしなんか、もう生きてたって何の価値もない。生きていたくないのよ!」
 安達凛子は手首を押さえていた手を離し、平手で思い切り美穪子の頬を打った。破裂音と共に、視界が滲む。一瞬、意識が飛んだかのように、真っ白になった。そのあと、鋭い痛みがやってきたが、さっきのような鈍い痛みではなく、皮膚の表面が瞬間的に焼け付くような感覚で、痛い、と思った。馬鹿じゃないの、と小さな声で安達凛子は言った。
「死んだらね、痛いっていう感じることもできないんだから。死んじゃったらね、何もかもが、消えてなくなっちゃうんだから」
「痛い……」
 確かに痛い。だが、少しだけ気分が落ち着いた気もする。あらゆる痛みが全身を襲ってくる。さっきの取っ組み合いで、身体のところどころが打撲しているようだ。
「痛いっていう感覚はね、生きてる証拠なんだから。痛いっていう感覚がなければ、人は生きていくことができないんだよ」
「『魚』を持っていって、どうするつもりなの?」
 美穪子は冷静さを少し取り戻して、安達凛子に静かにそう問いかけた。答えはもちろんわかっている。「あちらの世界」で美穪子が見た通りだ。安達凛子は、ふたたびあの世界に戻るつもりなのだろう。
 いや、それはおかしい、と美穪子はそこで気付いた。
 安達凛子は、向こうの世界からこちらの世界に戻ってこようとしていなかったはずだ。美穪子にとってはただの人形にしか見えなかったが、仁科さんとあちらの世界で暮らすことを心底から望んでいた。ということは、ここにいる安達凛子は、美穪子が知っている「あちらの世界」の安達凛子とは、記憶が同期していないというだけでなく、そもそも別人だということになる。
 そうか、と美穪子は気付いた。魚の毒を使って、向こうの世界に行った場合、自分の記憶は向こう側に移るが、同時に、現実世界にももう一人の人格を置いてきてしまう。そして、現実のほうに取り残された人格は、何度でも、「向こうの世界」に行こうとして、『魚』の毒を使おうとするだろう。だが、使っても使っても、そのたびに記憶が同期するだけで、現実のほうに人格は取り残される。そして、その取り残された人格は、何度でも、何度でも、魚の毒を使って「向こうの世界」に行こうとするだろう。
 そんなことを続けたら、一体どうなる?

(つづく)


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