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「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 前編 #056

 かんなに会いに行くという目標を抱えて生きていた瀧本は目標を失い、自分が何を目指しているのかわからなくなった。旅行から戻って来て、自分の部屋でひとりきりでいるときに、ふと、あのコミュニティと、現在、自分が暮らしているこの町はいったい何が違うのだろう、とぼんやり考えた。この町での暮らしは、あのコミュニティでの暮らしよりも立派なものなのだろうか。少なくとも、ここにいても、自分は幸福だ、ということを実感したことなどなかった。
 季節が移り変わり、瀧本は受験生になった。家を離れて、遠くの高校へ行こう、と考えるようになった。

 瀧本の学力で高校に進学するのは、さほど難しいことではなかった。兄が通っているような県のトップレベルの高校の試験にパスするのは難しいかもしれないが、三番目ぐらいのレベルの高校に合格することは、きちんと準備をすれば十分に可能だ、と担任からも言われた。両親は複雑な表情をしていた。予想していたことではあったが、兄は高校に入ってからますます疎遠になり、一年に数回、帰ってくるかこないかという頻度でしか帰ってこなかった。帰ってきても特にすることもなく、落ち着かないのか、家に荷物を置いたきり同級生のもとを尋ね、ひと晩寝たら、戻っていった。兄にとって、この町はもう完全に過去のものになりつつあることは明らかだった。両親は、口にこそ出さなかったが、お前もこの町を出て行くのか、と言っているような感じがした。
 結局、瀧本は遠くの高校に合格したが、兄のように下宿をすることはせず、家から二時間かけて通った。朝はやくに家を出て、夜遅くに戻ってくるので、家族と会話をすることもほとんどなく、実質的には遠くの街に住んでいるのとあまり変わりはなかった。瀧本は長い通学の時間を読書に充てた。そして、高校での生活は、中学の頃よりもさらに瀧本の世界を押し広げてくれた。
 夏頃に、瀧本は隣の席の男子生徒と仲良くなった。函南栄一というその男は、夏ごろになるまで、ほとんど声を聞いたことがなかった。前髪が長く、表情が読み取れない。いつも俯いて、ノートに何かを書き付けていた。人を寄せ付けないような暗い雰囲気があり、まったく友人がいなかったためにいじめの対象にすらならなかった。高校に入学してからの数ヶ月で友人が作れないと、その後は誰とも接点を持たないまま残りの高校生活を送ることになる。だがそんなことを本人が気にしている様子はなかった。
 周りと接点を持とうとしていなかったので、瀧本も彼に関心を持つことはなかったが、ある日、瀧本は英語の教科書を自宅に忘れてきてしまい、仕方なく隣の席に座っていた函南に、教科書を見せてもらえないだろうか、と頼んでみた。函南はこちらの顏も見ずに、黙って教科書を押し付けてきた。自分はまったく勉強するつもりはないようだ。ただ、教科書を押し付けるそのとき、彼が熱心に書き付けているノートがちらりと見えた。何か、英語が書き付けられているように見え、何それ、と小声で訊いてみた。書き付けられているのは英語だったが、いま行われている英語の授業とは関係がないような気がしたからだ。

(つづく)


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