見出し画像

「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 後編 #082

「えっと、川嶋さんははじめまして、ですね。先ほどはお会いはしていませんね」
「……?」
 美穪子は沈黙している。瀧本も黙っていた。
「実はですね、瀧本先生。僕は夕方、オートロックを破って入ってきたと言いましたね。ひとつ、種明かしをしましょうか。僕はオートロックなんて破ってないんですよ」
「合鍵でも作っていたの?」
「まさか。もっとスマートなやり方……。僕はですね、はじめからこの部屋の中にいたんです」
「はじめから?」
 まさか、そんなはずはない。この家には美穪子も江利子も出入りするし、隠れられるような場所もないはずだ。それに、瀧本は玄関のチャイムが鳴る音を確かに聞いた。だから玄関に出ていったのだ。
「もうおわかりでしょう。僕はね、瀧本先生の頭の中にいたんです。瀧本先生が見ている幻なんですよ。チャイムの音も、瀧本先生にだけ聞こえるように鳴らした。瀧本先生の頭の中で鳴らしたんですから」
「幻?」
 スピカと名乗る少年をじっと見ていると、不意にまたその輪郭がぼやける。闇夜に灯される灯籠のように、その姿は曖昧だった。言われてみれば、彼が幽霊や幻覚の類いだと説明されても納得できる。
「僕は、人の意識の中に潜り込むことができます。いま、僕は瀧本先生と川嶋さんの意識の中に潜り込んでいますが、お二人とも、僕を同じ姿で認識することができているはずです。でも、僕の実体は、いまお二人が見ているものと少し異なります。実をいうと、僕に明確な実体はないんです。お二人の意識の中に入り込んで、あたかも『そこにいるかのように』見せかけているだけです。僕自身が幻なんですね」
 スピカと名乗る少年はリビングを歩きながら、テーブルの上に置いてあるコップを手に取った。「ここなら、お二人の意識の中ですから、僕は好きなように動けます。こうして、テーブルの上のコップを手に取ることもできる。現実世界だとこうはいきません。幻覚みたいに、そこにいるように見せかけることはできますけどね」
「何が目的だ?」
「目的なんかないですよ。僕には実体が無いんですから、こうして誰かの意識の中に住むしかない。僕に家はないんです。常に誰かの意識の中に居候してるんです。強いていえば、あらゆる人とネットワークを繋いでいくこと、それ自体が僕の望みです」
「なぜカンナミコーポレーションの人間だと名乗った?」
「そのほうがわかりやすいんじゃないかと思って。僕は普段、函南社長の意識の中に住んでますからね。まあ、言ってみれば、定宿みたいなものですかね。彼とはよく会話もしますし」
 床に座ったままスピカという少年と向き合っているが、見下ろされるような格好になってあまり気分が良くない。背中をぎゅっと掴んでいる美穪子を促して、ゆっくりと立ち上がった。スピカと名乗る少年はかなり身長が低く、長身の瀧本は、彼を見下ろすような格好になった。だが、もしスピカという少年に本当に実体がないのだとしたら、自分の姿形を変えることぐらい雑作もないことだろう。

(つづく)


サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。