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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #012

 そうやって葛藤していると、凛子の視線に気付いたのかはわからないが、そう思っているうちに彼女は携帯の電源を切り、デスクにぶらさげているハンドバックの中に入れた。片目でこちらを窺い、いたずらっぽく微笑んだ。凛子はどう対応しようか一瞬迷ったが、反射的に、微笑み返してしまった。こういうことが抵抗なく、自然にできてしまう子はすごい、といつもながら思う。
「全然お客さん、来ませんね」
 世間話でもするかのように梶原は言った。凛子は端末を操作する手を止めない。カウンターでの接客業務の場合、仕事の中心は接客になるが、旅行代理店は旅行に必要な手続きはすべて代行するため、やるべきことは多い。凛子はとても手を止めるような余裕はないが、梶原は先月入社したばかりの派遣社員なので、まだ手持ちの仕事が少ないのだ。しかし、持ち前の要領の良さで、着々と仕事をこなしていくので、戦力になるのも時間の問題だろう。
 もっとも、要領がよくないと旅行代理店のカウンター業務はつとまらない。高いコミュニケーション能力と、確実な事務処理を求められる仕事だ。業務内容はそこまで専門性の高いものではないが、仕事としての人気は高く、学歴は高い人が多い。梶原自身も、出身校を尋ねたことはないが、とても頭の回転が良いので、有名校を出ているのかもしれない。
「梶原さん、安達さん、もう休憩行っちゃっていいよ。恩澤くんもそろそろ戻ってくる時間だしね」
 支店長の安江が事務所から出て来て声をかけた。凛子は梶原の教育係となっており、ペアで仕事をすることが多い。凛子は、はい、と返事をすると、端末を操作する手をいったん止め、窓の外を見た。近くに小さな公園があり、たまにひとりになりたい時はそこでお昼を食べるのだが、梶原がいる手前、それはできないなと思った。
 更衣室のロッカールームで弁当を取ってきて、梶原と休憩室に向かった。梶原も、最近は自分の弁当を持って来ている。梶原は、入社した当初は何もお昼を持って来ていなかったので、外食に行ったりもしたのだが、お互い毎日外食するだけの金銭的な余裕はなく、じきに自分の弁当を持ってくるようになった。
 休憩室に入ると、チーフの恩澤が、流行のアニメのストラップをたくさんつけた携帯をいじりながら、テレビのワイドショーに目をやっていた。
「お疲れ様です」
 お疲れ様でーす、と恩澤も返してくる。ここは休憩室だが、雑居ビルの中の空き部屋が休憩室として開放されているだけで、他の会社の社員も休憩室としてここを利用している。休憩室に居るのは、恩澤一人だけだった。
「支店長、機嫌悪くなかった?」
 恩澤が携帯に目を落としたままそう訊いてくる。恩澤は男性だが、ちょっと間延びしたような、極めて女性的な気の抜けた話し方をする。女性が多い職場なのでそうなったのかと思ったが、どうも昔からこんな感じらしい。
「別に普通でしたよ。なんでですか?」弁当を広げながら凛子は言う。恩澤は、会話がしたいのか、リモコンを操作してテレビのボリュームを下げた。恩澤は凛子たちとは入れ替わりで店に戻らなければならないから、すぐに戻らなければならないはずだ。

(つづく)


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