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「きみはオフィーリアになれない」 瀧本達郎 後編 #069

「先生、お顔の色がすぐれませんが……」
 安達凛子が帰宅したあと、美穪子は心配そうな表情を見せた。瀧本は微笑し、大丈夫だよ、と言った。美穪子はその心配そうな表情をなかなか崩さなかったが、やがて頬に微笑みを取り戻した。
 実際は、瀧本は自分がやや興奮状態にあることを自覚していた。それを意識して押さえようとしていたので、表面的には気落ちしているような表情になっていたのだろう。
「私、もう今日のお仕事はほとんど片付けちゃいました。先に上で、お夕食の支度をしてきますね。今日はちょっと遅くなっちゃいましたから、お買い物に行けなかったので、有り合わせのものになってしまいますが、よろしいでしょうか?」
 もちろん、と言いながら、瀧本は自分の診察室に戻ろうとした。コーヒーでも飲んで、心を落ち着けよう、と思った。
 診察室のドアを閉め、飲みさしのコーヒーに手を伸ばす。ドアの向こうから、美穪子がクリニックを出て行くような音が聞こえた。これで安心して思索にふけれる、と瀧本は安堵した。
 美穪子は現在、瀧本のアシスタントとして働いているが、もともとは瀧本のクリニックに通院するクライアントのうちの一人だった。瀧本のクリニックは、繁華街に位置していることもあり、さまざまな若者たちが訪れる。仕事上のトラブル、職場での人間関係、先行きの見えない将来に対する不安、そういった様々な諸問題が彼らを悩ませる。
 瀧本の仕事は、そんな彼らの話に傾聴し、心の振り子をゆっくりと、時間をかけて鎮めていくことだった。自分にはその天性の才能があることに気が付いていたし、それをより効果的に行うだけの技術を磨いてきた。医学的な知識も身につけた。医師としての実績を積むにつれて、それらは自信へと変わっていった。だが、決して驕ることなく、一人一人のクライアントに、誠実に向き合ってきた。
 ある日、瀧本のクリニックにある女性が尋ねてきた。五十過ぎほどのその女性は、ひどく怯えた様子でクリニックにやってきた。女性は診察室で瀧本と向き合うなり、診察を必要としているのは自分の姪なのだと言った。自分の姪は、早くに両親をなくし、自分が引き取って育ててきたのだが、ある日、自分の部屋に引きこもったきり、出てこなくなってしまったのだという。奨学金を借りて大学にも通っていたが、いまは休学しており、閉じ切った部屋の中で誰とも接触せずに閉じこもっている、という。
 瀧本は穏やかに、自分はしがない心療内科の人間にすぎず、ひきこもりとなってしまった方の治療は対象外なのだ、ということを説明した。社会的な要因からひきこもりになってしまった人に対してはそれを専門でやっている団体がいくつかあり、それは瀧本の専門外だった。瀧本のクリニックの対象者は、あくまで自力で通院が可能なクライアントに限られており、入院設備等も備えていないため、そういった対応はできないのだということを説明した。
「もう、そういうところにはひととおり当たりました。ですが、ちっとも事態が進展しなくて……。……要因がわからないんです。なにしろ、普通の、その……、ひきこもりの方たちとは、その……少し違うようでして」

(つづく)


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