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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #032

「まだお仕事は終わらないんですか?」と凛子は待合室のソファに浅く腰掛けながら声をかけた。もう時刻は十時を回っている。このクリニックは朝九時からやっているので、朝からいるのだとすると、かなりの長時間労働になる。
 美穪子は少し驚いたような表情になり、一瞬、凛子のほうを見て、そしてすぐに逸らした。その様子が普通ではなかった。そして、ええ、と小さく、かき消えるような声で返事をした。
 凛子は質問をしながら、自分がまだここにいるから、美穪子は仕事が終わらないのだ、と思った。「ごめんなさい、こんな遅い時間に来てしまって。私がいるから、まだ帰れないんですよね」
 すると、驚いたことに、美穪子はカウンターから立ち上がり、「ち、ちがいます」と少し大きめな声で言った。そして、すぐに座り、また目を逸らしてしまう。凛子は、もしかしたら美穪子も精神的に不安定な状態にあるのではないか、と思った。「だ、大丈夫です、わ……私のことなら、気にしないでください」
 美穪子に抱いていた、冷静で知的な印象の女性、というイメージが少し変わったような気がした。どちらかというと、いまの声のトーンは、幼かった。美穪子はいくつなのだろう、と凛子は考えた。最初に出会ったときは、落ち着いた様子から年上かと思っていた。だが、いま話した声の感じだと、自分よりも年下に思える。
 世の中には接客業と呼ばれる職種はたくさんあるが、本当に会話の能力が求められる仕事はそれほど多くはない。例えば、コンビニの店員や、ファミレスの店員など、マニュアル通りの接客をする職種の場合は、マニュアルに記載されている文句を覚えるのがまず最優先で、たいていのトラブルはマニュアル通りに対処するし、もっと大きなトラブルになれば上役が対応するシステムになっているので、自分で会話の内容を考える必要がない。だから、急にマニュアルにない対応を求められる事態になると、どう対処すればいいかわからなくなってしまう。マニュアルのない職場であれば、常に臨機応変に対応することに慣れているので、あらゆる事態に対処することができるが、現代ではマニュアルのない仕事というのは少ない。凛子は、軽い世間話のつもりで美穪子に話しかけただけだが、それが美穪子を緊張させる結果になってしまったようだ。
 凛子はこれ以上、美穪子に話かけてもいいものか迷ったが、美穪子はディスプレイを見続けているだけで仕事をしている様子はない。できるだけゆっくりとした口調で話かけることにした。
「少し、お話してもいいですか?」
 美穪子はまたびっくりした表情をして、凛子を見た。凛子は、顔を本当に真正面から見るのはこれがはじめてだな、と思った。端正な顔つきに、薄い縁なしの眼鏡をかけている。ほとんど度が入っていないので、目が悪いわけではなさそうだ。凛子に話かけられ、戸惑った表情をみせながらも、はい、と美穪子は頷いた。
「それ、度が入ってるんですか?」と凛子は美穪子の眼鏡をさしながら言った。

(つづく)


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