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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #130

「ええ、もうなんだか、どうでも良いの」
「そうですか、それなら良いんですが」
 しばらく沈黙。その間も、ひっきりなしに公園の中を人が行き過ぎていく。
「僕は、あなたたちのよく知ってる、『魚』そのものです」
「え?」
「僕とあなたたち人類は、共生関係にあります。僕は、自分の神経毒であなたたちに幻覚を見せる。そのかわり、そのときに発生するエネルギィを、僕らは摂取して生きています。あなたたちが夢を見るときに、ほんのちょっとだけエネルギィを貰って、それで生きてるんです。シンプルでしょ?」
「ええ、シンプルだわ」
「もう、元の世界に戻ろうとしないんですね」
「ええ、そのつもり」
「どうするつもりです?」
「どうって?」
「これから、あなたはどうするんです? そのままの意味です」
「どうでも良いじゃない、そんなこと。この世界にこうやってシンプルにいることができるんでしょう? それで十分だわ」
「ええ、十分ですね」
 スピカと名乗る少年も、隣に座ったまま、じっと公園の景色を眺めている。それは、とてつもなく平和な光景に思えた。
「それで、あなたはどうするの?」
「僕ですか?」
「あなたの目的がなんなのか、私にはさっぱりわからないけれど」
「そうですね、僕の目的は、概ね達成されましたよ。函南さんのおかげでね」
「函南さんが?」
「僕たちの目的は、できるだけ多くの人類に『夢』を見てもらうこと。そうすることで、僕たちはより多くのエネルギィを得られますからね。函南さんは、実にいろんな方法で、僕たちを世界にバラ撒いてくれました。彼ほどの財力がないとできないことだし、そうですね、確実に自分を破滅させる覚悟がないとできないでしょうね。でも、もうこれだけ『夢』が拡散しているのだから、かなり安定してきています。僕たちも、この『夢』の中で、安定して暮らしていこうと思っています」
「あなたは『魚』なの? どうして私たちと会話ができるの?」
「それは、あなたの記憶を借りているからですよ。あなたから得た記憶を使って、僕らは会話しているわけです。僕らが言語を話しているわけではありません。僕らは、幻影、灯籠のようなものなんです。外国にいる僕たちは、外国語で会話をしていますよ。言ったでしょう、僕らは共生関係にある、って」
「大変なのね、あなたも」
 美穪子は軽く伸びをした。
「どこへ行くんですか?」
 スピカと名乗る少年が美穪子に問いかける。「どこでもいいじゃない。少し歩きたくなったの」
 公園を出て、歩き出す。ここははじめて来る場所だが、足取りはしっかりしている。今更だが、ここが夢の中だということが信じられなかった。

 どれぐらい歩いただろうか。はじめて来る場所なのに、向かうべき場所がはっきりとイメージできている。公園を抜けると住宅街があり、落ち着いた町並みを美穪子は通り抜けた。遠くにビル群が見える。
 だんだん日が傾いていき、黄昏時がやってくる。空を見上げると、一番星が見えた。夢の中でも、一日は現実世界と同じように過ぎていくのだろうか。
 美穪子はただひたすらに足を動かす。ビル群を目指して歩いていると、次第に街中に接近していき、美穪子は繁華街に入った。
 だんだんと勝手のわかる道がわかってくる。ここに来るのははじめてのはずだが、不思議と自分の向かうべき場所はハッキリしている。
 美穪子はとあるビルの前で足を止めた。間違うはずがない。それは、瀧本のクリニックが入っている、自分たちのビルだった。
 美穪子は建物の中に入り、エレベーターを呼び出すボタンに手をかけた。手が震えているのがわかった。
 エレベーターの中に乗り込む。2のボタンを押す。扉は閉まり、ゆっくりとエレベーターは動き出した。
 目を塞いで、
 その場にしゃがみ込みたくなった。
 怖い。
 恐ろしい。
 できることなら、
 見たくない。
 見ることがつらい。
 でも、
 引き返すわけにはいかない。
 どうしてもここで向かわなければ、
 きっと、
 これから先、
 ずっと、
 後悔するだろう。
 エレベーターはあっという間に二階に着き、扉が開いた。美穪子の知っている、クリニックのガラス戸がそこにある。
 美穪子はドアに近づき、思い切ってドアを開け放った。
「あら」
 ソファに座っていた女性がこちらに気が付く。目が合った。さっきと同じ状況だ、と美穪子は思った。部屋にはその女性しかおらず、他には誰もいない。
「あなた、また、来たのね」
「だって、ここは……」
 美穪子は言葉を飲み込んだ。カラカラに口が乾いて、何も言葉が出てこない。

(つづく)


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