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「きみはオフィーリアになれない」 川嶋美禰子 後編 #119

 もうごちゃごちゃ考えることは辞めよう、と思った。もう一度、向こうの世界に行けばいいのだ。こちら側に誰かが取り残されるとか、そんなことはもうどうだっていい。とにかく、今のこの私が、向こうの世界に行って、そこからすべて考えればいいことなのだ。
「安達さん、行きましょう。『向こうの世界』に。行って、確かめてきましょう。それが一番いいです」
「確かめるって、何を?」
「仁科さんはそこにいます。実際、何がどうあれ、そこに行けば仁科さんはいるんです。行って、確かめてみましょう」
 安達凛子は腕を身体の前で軽く組んで、考える仕草をした。美穪子はそんな安達凛子の手を強引に取った。

 どんな体験も、一度くぐり抜けてしまえば、あとはそれをなぞるだけだから簡単だ。これから何が起こるのかがわかっていれば、怖いことは何も無い。おそるおそる水槽の中に自分の右手を差し入れると、じっと動かなかった『魚』はその身を震わせ、美穪子の手首めがけてピラニアのように噛み付いた。激痛が走り抜けたが、それは掠れていく意識の中の心地いいスパイスのようなものだった。自分の身体を駆け巡る電流にただ身を任せ、これから起こることに備えてじっと目を瞑っていた。
 気付くとうつぶせに倒れていた。そっと目を開け、隣に自分の姿を認める。二度目だと驚きは少ない。すぐに気を取り直し、上体を起こす。
 あたりを見渡して、あることに気が付いた。そばにいるはずの、安達凛子の姿がない。前回、瀧本と一緒に『魚』に噛まれたときには、そばに瀧本がいた。安達凛子が先に『魚』に噛まれたので、当然、先にこちらに来ているものだとばかり思っていたが、どこにも姿が見えない。
 美穪子は立ち上がり、まずは部屋の中を点検した。ここは、自宅のリビングで、細部に至るまで正確に再現されている。とても自分の意識の中とは思えない。
 リビングから繋がるそれぞれの個室のドアもちゃんとあった。美穪子はおそるおそるドアに近づき、そっとドアノブをひねる。何が出てくるかと身構えたが、見慣れた自分の部屋があるだけだった。拍子抜けして、正面の姿見に映る自分の姿を呆然と眺めていた。
 明るいな、と美穪子は思った。『魚』に噛まれる直前の時間、つまり現時刻は昼過ぎで、自分の意識もその時間らしい。窓から見える風景も、現実そのものだった。というより、現実となんら変わらない状態であるため、リビングに倒れている自分の分身がなければ、ここが自分の意識の中だと言われてもわからないだろう。
 安達凛子はどこに行ったのだろう? 美穪子は家の中を隅々まで点検してみたが、どこにも安達凛子の姿はなかった。
 瀧本と一緒の世界を共有していたこと自体が、おかしかったのだろうか。普通は、『接続』しない限り、他人と世界を共有することなんてできないのかもしれない。瀧本と自分は特別だったということだ。美穪子は、少しむずがゆいような気持ちになった。
 外に出てみることにした。自分の意識の中とはいえ、そのままの格好で外に出るのは憚られたので、自室で軽く身だしなみを整えた。

(つづく)


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