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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #020

 次第に凛子は感情が高ぶってきて、声をあげて泣き始めた。先輩の葬儀のときですら、ほとんど涙を流さなかったというのに、なぜこのタイミングで、こんなにも感情が押し寄せるのだろう、と意識の片隅で感じたが、もう自分の意思ではどうにもならなかった。瀧本はそんな凛子の様子を見て、少しも慌てた様子がなく、落ち着いた動作で立ち上がると、自分の執務用の机の引き出しからハンドタオルを取り出し、凛子に手渡した。にじむ視界の隙間から凛子はそれを受け取ると、化粧が流れ落ちることも忘れてただひたすら慟哭した。
 やや時間が経って、少し落ち着いてくると、瀧本がゆっくりと口を開いた。
「落ち着きましたか」
「すみません、先生。こんなところを見せてしまって」やっとのことで凛子は震えた声を絞り出す。鏡はないが、化粧は崩れてボロボロだろう。でも、そんなことも、いまはあまり気にならなかった。
「安達さんは、いま、自分の蓋をしていた感情を一気に開放したのです。当然、だからといって傷が癒えるわけではありませんが、いくらかは楽になったでしょう。人は、あまりにも強大なショックと向き合うと、現実を受け入れられずに心に蓋をしてしまうのです。でも、そうやって無理矢理蓋をしてしまうと、心身ともに無理が生じてしまう。開放するのが必ずしも良いとは限りませんが、とにかく、少しは落ち着いたのではありませんか。今まで、誰の目も気にせずに泣けるような環境はなかったのではありませんか」
 凛子は言葉にならず、ただ首を縦にふることしかできなかった。そして、不思議なことだが、このような失態を見せてしまった瀧本に対して、このクリニックを訪れたときよりも確かな信頼を感じていた。
「他人の死を受け入れるのは、つらいことです。なぜなら、亡くなる人は何も持たずに旅立っていけるが、あとに残された人は旅立っていった人が持っていたものも抱えて、これからの人生を生きていかなければならない。生きるというのはつらいことです。これはお釈迦様もそう言っています。生きるということは、他人の死を背負って行く、ということなんです」
 生きるということは、他人の死を背負って行くこと。確かにそうかもしれないが、生きれば生きるほど、周りの人はどんどんいなくなっていくから、最終的には自分のまわりには亡霊でいっぱいになってしまうだろう。
 思考が拡散している。
 瀧本に本当に聞きたかったことは、たったのひとつしかない。
 『白い魚』は、いったい何なのだろうか? その鍵を、瀧本は握っているかもしれないのだ。
 もう一度、『白い魚』に噛まれ、あの不思議な世界に入ることは可能かもしれない。エイジと名乗る少年は、クラゲという人物が世界を行き来していることを示唆していた。
 梶原は『魚』を使って自分の兄に会ったのだろうか? たとえそれがそうだとして、瀧本はすべてそれを知っているのだろうか?
 いいや、そんなことはどうだって良い。
 重要なのは……。
 そう、重要なのは。
 あの「影」の正体が先輩であること、を確かめること。
 そうすれば……。
 いつでも先輩に会える。
 先輩は消えてしまったわけではない。
 あたしだけが行ける、あの世界に行きさえすれば、いつでも会うことができるのだ。

(つづく)


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